うまれる ずっと、いっしょ。|映画『うまれる』

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うまれる ずっと、いっしょ。

闘病 の全体験談

体験を投稿

息子が生後3ヶ月の時、
体調不良が長引いていたため、かかりつけ医から紹介され、
そのまま地元の大きな病院で検査を受けることになりました。

その日の午後は詳しい検査はやっていないと聞いていたのに、
数時間かかって検査が行われ、嫌な予感がしていましたが、
こういう場合は大抵取り越し苦労だから大丈夫だと
自分に言い聞かせていました。

検査の結果、腎臓にかなり大きな腫瘍があることと、
血圧が通常値の倍の160あり、このまま家に帰れる状態ではないので、
小児科全員の管理の下一晩入院し、
朝一に救急車でこども病院に転院して詳しい検査をするという説明を受けました。

順調に成長し、二人目育児にも少しずつ慣れてきた頃の突然の出来事に、
私の思考は凍りつきました。

息子と二人きりの暗い病室で、
不安と恐怖に押し潰されそうになりながら夜を明かしました。

転院先では、更に肺への転移もあり、
早急に手術をして腫瘍の種類を特定し、
一刻も早く治療を始めた方がよいと告げられました。

数日後、手術で取りきれる腹部の腫瘍は全部切除できましたが、
ラブドイド腫瘍という極めて予後の悪い腫瘍が
腎臓を破壊するほどまでに大きくなっていたことがわかりました。

この腫瘍は年間数人ほどしか発症せず、
進行が早く転移しやすい上に抗がん剤が効きにくく、
治療法も確立されていないため、数ヵ月で命を落とすこともあるという、
余命宣告のような告知を受けました。

体調の異変から入院、手術、化学療法と
あまりにハイスピードで事態が進み、
せめて気持ちの整理がつくまで時間を止めて欲しいと
何度も何度も思いました。

間もなく地球が滅亡すると言われても、
今後驚かないだろうと思うほどの受け入れがたい出来事でした。

もっと現実に目を向けなければいけなかったのに、
私はあまりにも弱い母親で、全く気持ちが追い付かず、
ただただ奇跡の回復を信じることでしか自分を支えることができず、
家族や病気と闘う息子のことを思いやる余裕もありませんでした。

心身ともに極限状態で何もできない自分が情けなくて、
母として、妻として、人としても失格だと責めて、
更に追い詰めていました。

つらくても現実を受け入れようとしていた夫とも度々衝突し、
気持ちを吐き出すこともできなくなっていきました。

ドラマや映画では美談が印象に残りますが、
現実はお互い生きた心地がしないような精神状態の中、

仕事や家事や上の子の世話などもあり、
家族が団結して支え合うのはとても大変なことだと痛感しました。

最初は抗がん剤が効いて腫瘍が小さくなっているように見えましたが、
治療中にもかかわらず腫瘍が急激に大きくなり、
この先治療を続けていくことが難しくなりました。

治療をやめるということは死を覚悟するということで、
息子が元気になることだけを支えにしてきた私には苦渋の決断でした。

りんごのすりおろしをおいしそうに完食してくれたこと、
たった100mlのミルクを吐かずに飲んでくれたこと、
青い空の下に咲き誇る桜を一緒に見たこと、
いつもかわいい笑顔を見せてくれたこと、

当たり前のような些細な出来事の一つ一つに感激し、
幸せを感じました。

そして約4か月の闘病の末、
7か月の生涯を終えました。

息子を家に連れて帰ってきたとき

「これからはずっと一緒にいられる、
息子はつらい治療から解放され苦しまずにすむ」

と複雑な気持ちになり、

いつ何が起こるかわからないという緊張の糸がぷつっと切れ、
慌ただしく病院通いをしていた時間が空白になり、
寂しさが襲ってきました。

こども病院に入院して、
こんなにもたくさんの親子が難病と闘っているのかと衝撃を受けました。

なぜ罪のない子供達が病気にならなければならないのだろう?
命懸けで何を伝えるために生まれてきたのだろう?
と入院中に考えていました。

いつも大きな瞳で何かを訴えるように
私を見つめてくる息子を見ながら、
きっと私達を幸せにするために生まれてきたのだと思いました。

毎日何事もなく過ごせることや、
入院しても元気になって家に帰れること、
24時間我が子と一緒にいられることがどんなにありがたいことか、
息子が教えてくれました。

息子が病気になったことや
亡くなってしまったことも決してかわいそうなことではなく、

命の重さはどの子も同じで、
息子という存在があるからこそ幸せになれたので、
他の子達と同じように接して欲しいと願っています。

そして息子が亡くなって数か月が経った頃、
私達家族を繋ぐかのように次女を授かりました。

次女は私達を癒してくれる天使のような存在でしたが、
「子供は何人?女の子ばかり?」というような
何気ない会話は今でもつらいですが、
当時は胸を締め付けられるような想いでした。

念願の男の子を失った悲しみから、
もう一度この手に男の子を抱きたいと強く思うようになりました。

しかし高齢になってきたこともあり、
なかなか赤ちゃんを授かることができず、
焦りもあったし、
ずっと男の子のお母さんが羨ましくてしょうがなかったです。

こんなことを望むなんてエゴ極まりないし、
息子が戻ってきてくれるわけではないことはわかっていても、
どうしても諦めきれませんでした。

不妊と流産も経験し、
今まで苦労なく元気な赤ちゃんを授かってきたことが、
どんなに奇跡的なことだったのかと身をもって感じました。

そしてようやく誕生した第四子は・・・
女の子でした。

この子が最後の子になるだろうと思っていたので、
性別が判明したときは正直ショックを受けました。

ショックを受けてしまった自分にも落胆しました。

もう一人子供が欲しいと思ったときに、
希望の性別ではないかもしれないし、
息子のように難病を抱えて生まれてくるかもしれないということも
もちろん考えました。

だけどどんなに大変でも、
どんなに受け入れるのに時間がかかっても、
生まなきゃよかったと後悔することはないと確信できたので
チャレンジすることにしました。

生まれてきた三女はとてもかわいく、
三女のおかげで呪いのようだった長年の想いからやっと解放されました。

子供達はそれぞれ違うことを私に教えてくれ、
幸せにしてくれ、感謝でいっぱいです。

そしてどんなにつらいときでも私を見捨てず、
一番大切だと言って支え続けてくれた夫にも感謝でいっぱいです。

みんなありがとう、大好き!!

私の投稿を読んで不快に思う方もいるかもしれないし、
自分の不甲斐ない姿を公表することに迷いもありました。

私は強くて立派な母親ではないからこそ、
同じように悩んで苦しんでいる方の気持ちが少しでも軽くなって欲しいと思い、
投稿に至りました。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

2018.05.22 投稿者:m/静岡県

はじめまして。

私は、26歳で結婚し28歳で長男を出産しました。

初めての出産はとても孤独で大変だったような記憶がありますが、
元気に特に大きな病気をせずにすくすくと育ってくれました。

そんな長男が2歳を過ぎた頃ふと「ママ、お腹に赤ちゃんいるよ」って。

そろそろ兄弟もと考えていたので少し疑いながらも妊娠検査薬をしましたが(➖)でした。

それからも1ヶ月生理が来ないのでもう一度検査してみるとなん(➕)!!早速婦人科にかかりました。

やはり妊娠していて、しかも双子ちゃん‼︎双胎妊娠でした。
が、先生はとても冷静にこの頃の双子は良く見かける事で、
この後1つになってしまう事があるから、双子ちゃんかの確定は1ヶ月後ね〜と。

でも帰り道、家族みーんなに双子ちゃんかもしれない〜!!
とメールしてしまったのを覚えています。

それから何度か検診に通いますが、先生からおめでとう。の一言もないまま、双子ちゃんの1人が小さめですね。双子ちゃんだし大きい病院に紹介状書くね。と言われました。

あれ?友達のふたごちゃんママはこの病院で産んだって言ってたのになぁ〜と思いながら、大きい病院に…

先生からの説明は双子ちゃんの1人が首の後ろに腫れがある。
ntと呼ばれるもので、この時期にntがあるという事は、染色体異常や先天的な病気を持って生まれてくる確率が高いと言うものでした。
生まれてくる可能性も低い。
1人がお腹の中で亡くなった場合もう1人も危なくなる、と。

頭は真っ白でボロボロと泣き崩れてしまい、
一緒に行った長男は黙って私を心配そうに見ていました。

何にも考えられなくなっていましたが、
染色体異常の検査、羊水検査を中絶可能な日数中に終わらせたいなら急いで決断してくださいとの事でした。

後は減胎の説明などありました。

その時にお世話になった先生は、ハッキリ悪い点から説明してくださるので最初はそんなに悪い事ばかり…と感じましたが、

その後に対処法、今出来る事、自分は色々なお産を見たけどお母さんがんばろうね。と、がんばって産もうと言ってくれました。

そこからは、羊水検査→異常なし(性別女の双子と判明)→双子ちゃん二人共心臓病の可能性が高くなり→新生児科のある大きな病院へ

結果は双子の一人が先天性心疾患という事でした。

出産の日まで沢山悩みましたが、本当に素晴らしい出産になりました。

1人は生まれて直すぐNICUにお世話になり、
1人は元気に自宅に帰る事ができました。

あれからもうすぐ2年…。3度目の手術をもう直ぐ受けます。

辛い場面も沢山ありましたが、家族皆で乗り越えてきました。

何より夫婦+長男は無事に2人揃って生まれてくれた奇跡に感謝し、
病気と闘う次女を当たり前に支える日々です。

体の傷、運動制限、出産が望めない事。障害者ということ。

ネガティヴに考えるとキリがありませんが、
この出産は私達家族にそれ以上の何かを与えてくれました。

そしてまた新しい命を授かっています。

手術を乗り越えて、元気に赤ちゃんのお世話を取り合いする双子を見られますように…。

2016.08.21 投稿者:あさみママ

私は5年前に次男を1歳3ヶ月で亡くしました。

次男は生まれてから色々な異常が見つかりました。まず、哺乳障害。上手く母乳やミルクを飲めない為、鼻から胃へチューブを通し直接栄養を送る経管栄養での生活でした。

二つ目は肺動脈弁狭窄症と心房中隔欠損症と言う二つの心臓病。
そして、これらの病気を引き起こしている原因に染色体異常があると言われました。その染色体異常により次男は生まれてから殆ど身体が成長しませんでした。実際亡くなった1歳3ヶ月の時も身体の大きさは2〜3ヶ月の赤ちゃんくらいしかありませんでした。

生まれて少しした頃、1度目の遺伝子検査をしましたが原因の遺伝子が見つからず病名がわかりませんでした。病名が分からない不安の中、10ヶ月になった時に心臓の手術を受けました。約7時間に及ぶ大手術。その後心不全を起こしたりと色々問題が起こりましたが無事退院。

その後の経過は順調で前みたいに入退院を繰り返す事も無くなってきた頃、2回目の遺伝子検査をする事になりました。しかし、その検査を受ける事なく次男は突然病態が悪化し亡くなりました。あまりにも突然の出来事でした。

あれから5年。次男の後にまた2人子供が生まれました。下の子達は次男の事を知りません。これから大きくなってきたらどう話そうか考えています。

普通に生まれて、普通に育つ事がどれだけ奇跡なのか次男に教えてもらった気がします。あの当時とても辛かったけど、沢山の困難を乗り越えてなんとか生きようと頑張ってくれた次男を育てる事が出来た事に感謝しています。

2016.02.05 投稿者:りんりん 静岡県

「心臓がおかしい」


二人目の出産を2ヵ月後に控えた定期検診にて、主治医から唐突の指摘がありました。


頭の中が真っ白になりました。


何がなんだか分からなくなり、喉の奥が熱くなって鳥肌が立ちました。
涙も出ないほどのショックでした。


通っていた総合病院ではNICUが無いため、急遽大学病院での出産を進められました。


エコーの結果

「お子さんは右心室型単心室症です」

という耳慣れない病名を告げられました。

更に、 

「産後も肺の状態が分からないので自発呼吸が出来るかどうかは未知であり、
生まれても生きていられるかどうかは分からない。本当に50%です・・・」

とも。


病気と今後の治療方針について説明を受けている間、
あまりのショックにまるで他人事のように聞き流してしまう私と、そんな私を必死で支える夫。


治してあげることが出来ない・・・


何をしていても涙が止め処なく溢れてくる、無気力に陥りました。


それでもお腹の中で一生懸命生き続ける次男。
37週で陣痛があり、子供の体力が心配だったため緊急帝王切開で出産しました。


2,640グラム。自分で呼吸しています。

先生は、
「2,500グラムを切っていたら、命の保障はできなかったかもしれません」
とおっしゃっていました。

次男出産後は、床上げも待たずに毎日NICUにお乳を届けに行きました。


その頃、幼稚園年長であった長男を実家の祖父母に預け、夫も仕事を休み、
市内の大学病院に通うためビジネスホテルに泊まりながら1ヶ月、
心臓病にまつわる専門書を読み漁り、同じ病気を持つお子さんやご家族のブログなどを読み、
とにかく情報を集め、今何をすべきかを模索しながら、家族全員が一丸となって次男のために奮闘しました。


病院へ行って、毎日顔を見て、医師や看護師さんと
「今日は目を開けたね」、「点滴がひとつ抜けたね」と希望が見出せる話もしていましたが
日に日に下がっていく酸素濃度、顔色も赤黒く、ミルクもあまり飲んでくれない、
体重も増えない、だけど体重が増えなければ手術が受けられない、とてももどかしい毎日でした。

それでも次男の生命力は強く、生後20日で最初の手術
「BTシャント手術」を受けることができました。
6時間も掛かる手術でした。


一命を取り留めたとは言え、術後の酸素濃度はあまり上がらず70台が続くため、
少しでも泣けば顔色が真っ黒になり、常にチアノーゼが出ていました。

担当医からは、あまり泣かせないようにという注意がありましたので、夜も夫と交代で見守りました。

更に、口唇口蓋裂も合併していましたので、上手に哺乳瓶の口を吸うことが出来ず、ミルクを飲むのも本当に大変でした。

一ヵ月後に退院した後、自宅治療を経て生後6ヶ月で「グレン手術」を受けました。

その頃から、細く小さな体だった次男の体は、
在宅酸素をしながらも見る見るうちに大きくなり、大きな病気もすることなく
1歳半のとき、最終目標であった「フォンタン手術」を受けることができました。


術後から先月で1年経ち、現在の酸素濃度も95-98台をキープ、
1年以上お世話になってきた在宅酸素も、半年前に卒業することが出来ました。
術後も順調すぎるほど順調で、今までも大きな病気にかかってはいません。

しかしながら生まれつき脾臓が未熟なため、感染症に気をつけながら生活しています。


次男は心臓病の合併症で、肺動脈狭窄、口唇口蓋裂、内臓逆位という障害があり、
現在2歳半までに6回の手術を受けてきました。


そんな現在の次男は、とにかく元気です。

外遊びが大好きで走り回ったり転げまわったり、2歳で階段の上り下りもブランコも一人でやってのけます。
言葉も少しずつ出てきて、意思表示をはっきりとします。

少しくらいぶつかっても、転んで擦り傷を作っても、絶対に泣きません。

唇の色もピンク、爪の先の色もピンク、顔色も明るく、ちゃんと酸素が体中に行き渡っていることがよく分かります。


次男が最終目標に掲げていたフォンタン手術は、未だ歴史が浅く一定のデータがないため、次男の心臓と付き合いながら未来を見据えて生きています。

これから集団生活が始まれば、体力的な面でもいろんな壁にぶち当たるでしょう。

体力面での制限は、「オリンピック選手にはなれない」「吹奏楽は出来ない」といわれています。

親としては、子供が好きなことをたくさんやらせてあげたい気持ちもありますが、医師と次男の体と相談しながら、無理せずゆっくり生きていければと思っています。


この障害を持って生まれてきた次男ですが、多方面の方々から

「治らない病気とは言え、ここまで元気に生きていられるなんて、今の時代に生まれてきて良かったね」

と言われました。
日本の医療のレベルの高さもまた、次男を通して非常に有り難かったことです。


専門分野の信頼できる医師との出会い、全面的に協力をしてくれる回りの人々、

家庭の事情で1年半祖父母と暮らすことになってしまったことを強く受け止め我慢してくれた長男、

私が精神的に倒れそうになっても必ず支えて立ち直らせてくれ、共に戦った夫、

そしてなにより私たちを選んでくれて毎日笑顔にしてくれる次男に心から感謝しています。


笑顔溢れる今が、2年半前の病気発覚を思い返せば、本当に夢のようです。
少し辛いことにぶつかっても、「次男が生まれた頃を思い出せば、たいしたこと無いな」と夫婦で笑い話に出来るほどに心の余裕も出来ました。

これからも、子供たちの緩やかな成長を眺めながら、いつまでもこの時間が続いてくれることが、私たち夫婦のささやかな願いです。

2014.06.01 投稿者:なつ/東京都

わたしはうつ病になって3年になります。

この映画を知ったきっかけは、高校生のころ福祉科に通っていて、授業でこの映画の話を担任の先生から聞きました。

私はまさか自分が病気になるなんて、こころの病気になるとは思いませんでした。

しかし、高校3年の新学期にうつと診断されました。

元気なころの私は、福祉の勉強はしていたけど、こころのどこかで心の病気や精神的な障害に偏見がありました。

教室に通えなくなり、学校に行くのも、人ごみが怖い、人が怖くなってしまい、結局休学になりました。クラスのみんなは進路が決まっていったり、一緒に卒業も出来ませんでした。

とてもとても悔しかったです。

特に大好きなクラスメイトに恵まれ、素敵な先生に恵まれたのに、頑張れなかったこと、一緒に卒業できなかったことが悔しかったです。

うつ病のなり始めの頃は、薬の副作用も出て苦しかった。

今も、心の病気は、家族にも理解してもらえないこともあります。

苦しくて、うまくいかないことも、できないこともあります。

でも、福祉科の先生が私に言ってくれたことがありました。

「今、病気で苦しいけど、その分あなたにはギフトがついてくる」


成人式を迎えた時、その言葉をすごく実感しました。

この病気で遠回りしました。でもたくさんの人に、家族に恵まれたと感じました。

お父さんやお母さんは、私が生まれた時どう思ったんだろう、私が病気した時もきっとわたし以上に苦しかったよね、ちいさいころからずーっと一生懸命愛してくれたよね、

そう思うと涙がとまりませんでした。

あれからもうすぐ1年になります。

今は、本気で結婚を考えるほど、大好きな彼がいます。

わたしたち家族は、今もうつと闘っています。

わたしの目標は大好きな彼と結婚して、大好きな彼と私の赤ちゃんを産むことです。

大好きなお父さん、お母さんに、赤ちゃんを抱っこしてもらうことです。

だから、わたしは絶対に元気になります。

わたしはこの家族にうまれて、
この人生を生きていることに、

感謝です。

2013.12.26 投稿者:はる

次男を妊娠中の2010年、乳癌が見つかりました。

40才だった私は、どうしても息子を産みたく、妊婦のまま手術してもらう事にしました。

手術をしてもらった乳腺外科は、たまたま隣で院長先生の義理のお姉さんが産婦人科をしていたので、連携していただき、2010年12月、妊娠確か5ヶ月でした。

九州の田舎で、妊婦の乳癌手術はどんなにPCで検索してもなく、東京まで行かないといけないのかなと思っていましたが、院長先生は手術してくださいました。後で聞いた話なのですが、妊婦の乳癌手術は、この病院(院長先生)では初めてだったそうです。

そんなこんなで無事手術も終わり、翌年の2011年4月5日次男を帝王切開で無事出産!
元気な可愛い男の子でした。

良かった!無事産まれてきてくれた!と思ったのも束の間、息子は生後20日、4月25日になってすぐ、0時過ぎに嘔吐。40度近い発熱。

田舎なので夜間に乳幼児を診てくれる病院もなく、消防署に電話したり・・・
朝5時過ぎに、長男のかかりつけの小児科で診てもらいましたがCRPの反応も出ず、一旦家に帰りました。

それでもおかしいので、もう一度受診しに小児科に行くと、救急車を呼ばれ救急病院に。

そこでも対応できないとの事で、隣の福岡県久留米市の病院からドクターカーに来てもらい・・・

検査の結果、細菌性髄膜炎でした。

この日から半年、息子は目を覚ます事なく、2011年10月24日、お空に行ってしまいました。

もうすぐまる2年。三回忌です。

半年間、息子は頑張りました。
入院中、色々考えました。
どんな姿でもいい、太ちゃん生きてて!お母さんの側にいて!と!

私が今生きているのは息子にもらった命!
今4才の長男が20才になるまでは、頑張って生きていたいと思っています。


2013.10.02 投稿者:Mayumi W/大分県

私には、胆道閉鎖症で生体肝臓移植した息子がいます。

胆道閉鎖症とは、肝臓から胆嚢への道が閉鎖し、肝臓に胆汁がたまり、肝硬変に移行してしまう難病です。葛西手術で経過がみれる子もいれば、いずれ肝臓移植をしなければ助からない子もいます。

2011年に男の子として、産まれ、なんだか色黒だな、黄疸?!思いながらの日々。
小児科でも、「気にしすぎでしょう」と。

しかし、BCG接種時、医師から「すいません。今まで見落としてました。すぐに、大きな病院へ行って下さい.........」と言われ総合病院。

緊急入院、手術の必要性、胆道閉鎖症であること、このままでは、二歳まで生きれるかどうか、手術するにしては、時期がやや遅い、など話がありました。それから、9ヶ月くらいの入院生活の始まりです。

息子には、当時3歳の姉がいて、かなり我慢させた事を思い出しますが、私が泣き崩れてわめいてしまったとき、娘は、祖母に「お母さんのところに行ってあげて.....」と言ったそう。母親と、離れ離れながら我慢し、思いやり、優しい娘です。

一度目の手術では、改善せず、腹水や黄疸の悪化し、肝移植の話が出てきました。我が子が、助からないかもしれない不安や、なんでこの子が⁈とか、頭が整理できず、病室のトイレで逃げ出したい気持ちを、泣きさけぶことで、晴らしました。

泣いてばかりでは、命はつなげず、両親や親戚、職場の方々、大切な友人の支えがあり、何度も立ち上がり、熊本へ移植をしに行くことになりました。

移植は、私から息子への生体肝移植。Xmas過ぎての事でした。

順調にいけば、二ヶ月くらいで退院できるはずが、術後喘息が併発。
息が止まりかけ、緊急にICU移送。このときも、もうダメなんだろうかと、恐怖でした。

医療のお陰で、一命をとりとめ、病棟へ。腹水や胸水が止まることなく、なかなかチューブは抜けなかったのですが、次第に止まり抜去。いよいよ、退院で喜び自宅へ。

しかし、外来受診で、肝機能悪化で再入院。拒絶反応かよくわからないまま、改善せず、点滴治療、検査の繰り返しをし、やっと自宅に帰れました。

入院中、知り合った同じ移植を強いられた子供たちや、そのお母さん達は、貴重な出会いでした。

いくら、願っても、命は限りがあるんだろうと、頭では理解しても、自分の子が冷たくなるかも知れない現実は、酷です。

今ある現実を受け止め、ひたすら付き添う母親と、それをサポートする家族は、頼もしく美しいものでした。

そして、命いっぱい生きようと、ただひたすら耐えている我が子たちに、生命力の素晴らしさや、生きることのありがたみ、当たり前なことがそうではないことを、教えられました。

二回もの移植を乗り越えた子、代謝異常で命をつなげなかった子、免疫抑制剤の副作用で悪性のリンパ腫になりかけた子.........その子たちから教わったことは、今できることを、ありがたく思い、そのときの精一杯できることをしていくのみであること、そして、笑えるときにしっかり笑い、楽しむこと。

私たちを、応援し支えて下さった方々への感謝の気持ちは、消えることなく、息子がこの病気になったからこそ、頂いた財産です。

まだまだ、息子は何歳まで果たして生きれるのか、生体肝移植の歴史は約20年でまだ、未知の世界。

免疫抑制剤を一生飲まなければならないから、感染症や、癌化などの不安もあります。

でも、やっぱり笑って生きて行きたい。幼く失われた命もある中、維持できているこの命が、続いてくれる限り、私たちはこの世が楽しく暖かく、愛に溢れ、支えあいながら生かされていることを、伝えていきたいものです。

2013.09.10 投稿者:ひらひら 広島県

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2013.07.30 投稿者:XXX

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2013.07.11 投稿者:※※※※※