うまれる ずっと、いっしょ。|映画『うまれる』

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うまれる ずっと、いっしょ。

出産の体験談 の全体験談

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長男を30週1700gで出産。ウテメリンで重篤な副作用が出た為、次の出産からはウテメリンが使えず、それでも切迫早産のリスクがあるので妊娠にはすごく慎重でした。

長男が5歳の時第二子を妊娠、つわりがひどく入院をしながらなんとか耐え、切迫早産に備えて子宮口を縛る手術をするために入院した次の日。お見舞いに来た長男の頬が赤く腫れていました。『りんご病かも?』担当医に伝えると、すぐさま隔離され、家族にも感染してるかもしれないからと面会も謝絶。つわりがひどく何も食べれず吐いている中、『感染していても何もないこともある』と、血液検査と予定通りの手術をしました。


2週間ほどの隔離入院中に、りんご病に感染していることがわかり、退院する数日前から毎日エコーで赤ちゃんの水腫を調べることになり、退院する前夜水腫があることがわかりました。まだ15週でした。何もできることはありません。

退院日の昼にはかなり大きくなっていて、1週間が山場だと言われ退院しましたが、つわりはまだ波があり一週間後の診察日前夜、ひどく気持ち悪く吐いたのを覚えています。

そして診察。

『心臓、止まってる』と、先生に言われ、何度か見てもらった後、そこからはひたすら泣いて、今後の説明はあまり覚えていません。


長男の時も産声なく、24時間が山場ですと言われました。幸い元気に大きくなっていますが、神様はどうして私に『普通に』出産させてくれないんだと、心から思ったことを覚えています。

助産師さんたちのあたたかいお心遣いでたくさん抱っこして旅立たせることができましたが、時が経つにつれなんであの時…どうしてあんなに気をつけていたのに…幼稚園が気をつけてくれていたら…といろいろなことを考えていました。園長先生に怒鳴り込む夢まで見ました。

それから幼稚園に行事で行くたび、息が苦しくなり涙が止まらず、幼稚園に行けなくなりました。参観や行事は主人に行ってもらい、家でも何もできない日々。辛くて辛くてたまりませんでした。長男のために何かしてあげたくても、何もできないことが歯がゆく、それでも何もできない日々が続きました。


カウンセリングに行ったり、グリーフケアもしました。でも日に日にひどくなる体調に、心療内科へ行こうと、決めました。

お薬に頼って、体調がいい時にできることだけして過ごしました。

ちょうどその頃、従姉妹が別の理由で気持ちが落ちていて、2人で毎日のように話をしました。話をしていると自然と夕飯が作れたり、家事ができました。

2人で楽しいことも探しました。歌うこと、私たちはこれが大好きなんだ!と、よくカラオケに行きました。

そうして体調も安定して来た頃、やっとお骨を納骨する気持ちになりました。

そしてその後すぐに第三子を妊娠しました。
長男の卒園を控えた冬でした。

今度は万全を期して、マスクは肌身離さず、つわりがひどいため入院も何度かしました。

長男にはかわいそうでしたが、極力接触がないようすごく気をつけました。

手術も終え、普通なら内服で自宅安静の張りでも入院しました。自
宅にいてもずーっと安静生活でした。

長男は入院中に世話ができる人がいなく、
実家の近くの小学校に一時的に転校していました。すごく頑張ってくれました。

みんなで頑張って、無事に第三子を出産することができました。

分娩台の上で、産声を聞いてから、しばらく号泣でした。2年前に第二子を出産した分娩室で、赤ちゃんの産声を聞いている。

本当に嬉しくてたまりませんでした。

もうすぐ一歳になりますが、お空にかえったあの子が産まれていたら、この子には会えなかったかもしれないと思うと、とても不思議です。

そして、この子が居なかったら、私はどうなって居たんだろうと、産まれてきてくれたこの子と、どんな時でも私を支えてくれた長男が愛おしくてたまりません。

2017.07.02 投稿者:beavermama/神奈川県

酷かったつわりがようやくおさまったと思えた頃、
わたしは19週で破水をしました。

夜、長男と一緒にお風呂に入ろうと服を脱いでいると、
何か水のようなものがパンツをぬらしました。

妊婦だから尿もれかも…、おりものが多くでたのかな?といろいろ悩んだ末、病院に電話をしました。

事情を話すと、診察をするので来て下さい。との事。
急いで主人と長男と一緒に病院へ行きました。

夜間だったので少し不気味な院内…わたしはとぼとぼ歩きながら何か嫌な予感でいっぱいでした。

内診台に上がり診察をする間
先生は無言…次にエコーで胎児の様子を確認し、
先生が、「ご主人に中に入ってもらって。」と看護師さんに伝えました。

先生は、青い線がはいったスティックの様な紙を
わたしと主人に見せながら、

「ここに青い線がでています、これは破水の反応です。
非常に厳しい状態だと思ってください。
いつ陣痛がくるかわかりませんが、近いうちに陣痛がくる確率が非常に高いです。
今から入院して陣痛をおこさないようにお腹の張りを止めます。
ただ、絶対安静になりますので辛い思いをすることになると思います。
胎児は元気で、わずかですが羊水は残っています。わたしたちも全力を尽くします。」と…

動揺してわたしはうなずく事しかできませんでした。

そして先生が、
「今の状態で胎児が無事にうまれる事ができる確率は10%程度です。」と…
10%!?あまりに低い確率に涙があふれ出ました。

「でも大丈夫だった方をわたしは今まで見ています。頑張りましょう。」と先生はわたしに優しく言いました。

10%あるんだから絶対大丈夫!と自分を励ましました。

ストレッチャーが用意され、仰向けに寝たままわたしはストレッチャーに乗せられ病室へ向かいました。ずっと主人の背中に隠れながらわたしの様子を見ていた長男…

つわりでずっとかまってあげれずさみしい思いをさせていました。

やっとつわりが落ち着き、たくさん遊んであげようと思っていたのに…
ごめんね…
これからどうなるんだろう…と
不安で不安で仕方がない日々が始まりました。

わたしは破水をしている状態なので
羊水がこれ以上もれないようにしなければなりませんでした。

ご飯を食べる時以外は常に寝たきりです。
ご飯を食べる時も少し上半身を上げられるだけ…歯磨きもお通じも全てベッドの上。

羊水がもれるのがこわくて
わたしは常に仰向けで横になっていました。
そのせいで褥そうができました。

寝返りはうってもいいとは言われていたのですが、
なかなかできませんでした。

そして、寝たままお通じすることも
お腹に力を入れられず便秘になり、浣腸をしたり
それでも出なければ看護師さんに手でだしてもらうという事もありました。

24時間点滴で、お腹が張る度に上がっていく点滴の量と種類。
針を何度差し替えたか、両腕は点滴の穴だらけになりました。

お風呂にも入れず身体を拭くだけ。
髪は1週間に2回寝たまま洗ってもらいました。

ベッドに横たわっているだけで時間もたたず、毎日不安で押し潰されそうでした。
病室の外からは赤ちゃんの泣き声や産後のお母さん達の話し声が聞こえてきて…
先生や病院スタッフの皆さんの前では笑顔で過ごしていましたが、
夜になるとたまらなく不安で寂しさもあり
感情をおさえきれず泣いていました。

でもお腹の子の胎動がわたしを毎日励ましてくれました。
そして家族の笑顔がわたしの救いでした。

なんとか21週に入った時には、
妊娠を継続するか諦めるかの選択をしなければなりませんでした。

羊水がほとんどないままお腹の中で過ごすということには
いろいろなリスクがあります。

わたしたち家族の気持ちの中には
諦めるという事なんて絶対にありませんでした。

22週の時、羊水流出が酷くなり、
NICUのある大きな総合病院へ転院することになりました。

そして23週で完全破水になりました。
羊水はほとんど残っていません…

もういつ陣痛がきてもおかしくない状態。
その後は出血も何度かありました。

エコーでなかなか胃泡が確認できず、
もしかしたら胃がつながっていないのかも。とか、
右の心臓が大きく見える為、心奇形の可能性があるなど、
たくさんの心配事がありました。

それでも奇跡的に35週になりました。
あと2週で正期産と言うときにわたしは感染してしまいました。

35週と4日に、急遽胎児をお腹の外に出すことになりました。

点滴を抜いたその日、
無事に自然分娩でうまれ、元気に泣いた赤ちゃん。
2238gの男の子でした。

赤ちゃんはすぐにNICUにはこばれて検査を受けました。
長い間羊水がないまま育った結果、
肺が未熟で自発呼吸が難しい状態でした。

その後は治療により自発呼吸もできるようになりました。
レントゲンで胃がちゃんとつながっていること、
心臓も大丈夫な事が確認されました。

ほんとうにほんとうにほっとしました。

わたしはと言えば、
4ヶ月間寝たきりだったのでひとりで立つこともできず
リハビリに励みました。

今は母子共に無事に退院し、幸せな毎日を過ごしています。

10%の奇跡がおきました。
思い出すと涙がでます。

妊娠、出産とはほんとうに奇跡です。

2017.03.17 投稿者:Nagiくんのママ/山口県

今年の7月に待望の女の子を41週2日で死産しました。

前の日の検診まで何にも異常なくいつ産まれてもおかしくないと言われてて予定日過ぎてるけどママのお腹の中が居心地がいいのかなとか周りに言われてました。

一週間前の検診では22日入院して促進剤を使って出産しましょうと言われていて22日に病院に行ったら今日は、時間的に難しいので明日にしましょうと言われて23日に入院することになりました。

23日の朝、自然に陣痛がきたので促進剤使わなくても自然に産めると思い嬉しくて、産婦人科へ向かいました。

NSTを助産師の人がつけてくれたんですがなかなか赤ちゃんの心音がひろえなくて、私は陣痛もきてるし何やってるんだろうと思いながら見てました。そしたら助産師が先生を呼んできますと言ってきて、その後先生がきてエコーをやるともうすでに赤ちゃんの心臓は動いてませんでした。

最初は意味がわからなくてまた動き出すと思ってしまい陣痛中、ネットで検索してました。しかし一度止まった心臓は動くことはないみたいで。陣痛もきてるしなんで?なんで?ってずっと考えてました。

私は里帰り出産で主人は仕事だったので立会いはできなかったんですが今回の事があったので急いできてくれました。赤ちゃんも主人を待っていたかのように主人が陣痛室に着いて少したってから産まれてきてくれました。しかし産声はなく動きませんでした。こんなに悲しくて辛いお産があることじたい今まで知りませんでした。

その後私は弛緩出血になり大きな病院に運ばれたりしてなんとか私は大丈夫でした。その後色々先生に聞いたらへその緒が普通より捻れていてそれが原因と言われました。前の日まで検診で元気だったしもし前の日に産んであげてたらどうなってたんだろうとか色々考えてしまいました。

上の子は今3歳で赤ちゃんがお腹にいるのもしっていたので赤ちゃん産まれた?って聞かれるたびにとても悲しくてお兄ちゃんにしてあげられなくてごめんねって言ってました。

けど今はお空に還ってまた戻ってきてくれるよって言ってます。

周りに同じ経験した人がいないので話したりできないのが辛いです。
同じ経験した人しかこの気持ちはわかりません。

同じ経験した人達のブログなど見たりして少し前向きになりました。

池川明先生の本、ママさよなら、ありがとうという本を読みました。
そこにはママのお腹に宿れただけで幸せだった赤ちゃん、忘れ物を取りに帰った赤ちゃんなどいろんな赤ちゃんの事がかかれてました。

私の赤ちゃんもきっと自らその道を選んで還ったんだなって思いました。へその緒が捻れてても元気に産まれてくる子は産まれてくるみたいです。それを聞いて思いました。

今は上の子を沢山愛してあげようって思ってます。赤ちゃんも今はお兄ちゃんを沢山見てあげてって言ってるような気がしました。

赤ちゃんは何かしら意味があってこの道を選んだんだと最近は思えるようになりました。まだまだ泣いてしまう時もありますが前向きに頑張りたいと思います。

2016.10.19 投稿者:アーリー/群馬県

2010年10月16日 午前7時 魁星誕生

2010年の年始、今年の目標は「家族を大切にする事」・・・
当たり前のことができていなかったと反省を込めた目標だった。

そんな一年がスタートした矢先、
思いもよらず第二子がお腹にやって来た。

出産予定日は10/10。
予定日が近い幼稚園のママが予定日前に出産。

二人目だし私も少し早まるかも?なんて思った。

10月に入り、宮下先生(助産師さん)の内診があったが「あれ?全然お産が近づいている感じがしない」と一言。

妊娠6週から約2ヶ月飲食できず寝たきり(起き上がると気持ち悪くてどうにもならない)のつわり、その後起き上がれるようになったけれどずっとずっと気持ちが悪い(吐かない。でも気持ち悪い)つわり状態の妊娠期間。運動も出来ない。

食べなくちゃいけないのだろうけど食べると気持ち悪くなるから食欲はほぼ皆無。そんな時いつも旦那が「つらいんだろうけど、ちょっと頑張ってみたら変わるんじゃない?」といつも「もう少し頑張れよ」みたいな事を言っていた。頑張りたいよ・・・頑張んなくちゃって私だって思ってるよ。わかってるよ・・・頑張れない毎日に、気持ちはいつも焦っていた。

お産が近づかないのは運動不足だからかな?
あと何日この気持ち悪い日々が続くんだろう?早く解放されたいよ。

赤ちゃんに会いたいという気持ちよりも、自分のつらさを解放してほしい気持ちのほうが大きかった。そんな事を思う自分が、身勝手でイヤだとも思った。

予定日を一日過ぎてお腹がしくしく痛む。
あれ?この痛み定期的かも!すぐに宮下先生に連絡。
状況を話すと「う~ん、陣痛とは思えないなぁ。様子見ながら過ごして」と言われ「まだなのか・・・」と落胆。

1時間ほどして先生が往診に来てくれた。
顔を見るなり「全然お産する人の顔じゃないから、陣痛じゃないね」と言われ、内診してもらうと「あら?やっぱり全然赤ちゃんが降りてない。こんなに大きくなったのにまだ上にいるから相当苦しいよね。この子、破水しないと降りてこられないなぁ。」と、ぐいぐい指を入れても赤ちゃんの頭に触れることが出来ないらしかった。

次の日、家族で海に出かけて砂浜をお腹をさすりながらひたすら歩く。

この一歩一歩で出産に近づくんだ!気持ち悪いけど、動くのつらいけど、もうここまできたら何とかしないと!そして何も起きずに3日が過ぎた。

胃が圧迫された感じは相変わらず。
まだ上にいるんだ・・・どうしたら出産になるのかな?
落ち込む私に、宮下先生が電話をくださった。

「どうもね、彩ちゃんの出産の時のあなたと全然違うって感じるの。出産に向き合えない何かがありそうで気になるのよ」

「自宅出産の予定だけど、何となく助産院で出産したほうが良さそうな気がするのよ」・・・宮下先生の言葉を聞きながら、自分の思いを話すとだんだん何かが込み上げてきて、私は電話口で涙がいっぱい溢れて声を上げて泣いてしまった。

胸のつかえは何だろう?私はどうしたいんだろう?

ゆっくり、ゆっくり考えてみた。
そこでようやく、気づいてはいたものの表に出せなかった
自分の本当の気持ちが浮き上がってきた。

「出産のとき、頑張れと言ってほしくない!」。

旦那はきっと頑張れと言うはず。

つわりで辛い時も、胃が圧迫されてずっと気持ち悪かった時も、
周りは優しい言葉をかけてくれたのに、彼だけが「頑張れ!」と言った。

出産の時は言われなくたって頑張っているはず。
その時に「頑張れ」と言ってほしくない。

自分の気持ちがはっきりしたので、出産の時に頑張れと言わないで欲しい、色んな思いを彼に伝えた。

だけど何となくわかっていないよな・・・と感じた。

そして出産直前、彩華がなんと水疱瘡発症!

これまで誰かが水疱瘡になるとウィルスをもらいに行ったりしても、
子ども同士の集まりで発症した子がいても全く罹らなかった子が、
どうしてこのタイミングで・・・?

宮下先生に相談、小児科の先生にも相談、
もう数日で産まれるはずだから新生児と彩華を隔離する必要があるため、自宅出産は無理と決断した。

彩華は出産をとても楽しみにしていた。
産まれた赤ちゃんを一番最初に抱くんだと楽しみにしていた。

友人の出産に立ち会ったことがあるので、
お母さんが一生懸命頑張って赤ちゃんが産まれる事を知っている、だからうちわで扇いでママと赤ちゃんを応援するんだと張り切っていた。

自宅での出産を助産院での出産・入院に切り替えたものの、
彩華は私がどこで出産しようとも立ち会えない。

産後も小児科で許可が出るまで
赤ちゃんには触れられないので会えない。

そして水疱瘡発症から2日後の夜中、
彩華が発熱で「熱い・・・」と言って私を起こした。

起きたら急にトイレに行きたくなり布団から出た。
立った途端にザーッと生温かいものが太ももの内側を伝った。
きゃー!破水だ!流れ出るものを止めたくてもどうにもならない。

絶対に破水だ!彩華は自分の発熱も忘れ「ママ、赤ちゃん産まれそう?早く支度しよう。」と布団から出た。

宮下先生に電話をし、破水した状況を話し、車に乗り込んで助産院へ。

同時に立会いを希望していた妹夫婦に連絡。
真夜中の助産院は玄関だけ明かりがついていてとても静かだった。

荷物を持って玄関から入る。彩華も玄関まで一緒に来た。
それまで水疱瘡だからママは助産院で出産する、立会いは出来ないなど説明をしてきた。彩華も理解していたはず・・・が、その時になるとすっかり忘れてしまったようで助産院の中に入ろうとした。

「パパと一緒に車に荷物を取りに行こう」と言われ、車に戻った。騙したような強引なような感じ・・・

でも陣痛が始まった私にはゆっくり説得できるような余裕がなかった。
彩華は車の中で号泣していた。陣痛が始まった痛みと不安が膨らむ中で聞く彩華の泣き声に、寂しさが込み上げてきた。

そして彼が「連れて帰らなくちゃいけないから、もう行く。頑張れ!出産頑張れよ!」と言って助産院を出た。

やっぱり・・・やっぱり「頑張れ」と言うんだなぁ・・・。

私を待っていてくれた助産師さんと二人きりの静かな助産院。

お産をする部屋に入り、内診を受け、どんどん陣痛が強くなってきた。
「産むブック」に陣痛は子宮の筋肉の一本一本が収縮する運動と書かれていて、妊娠中にずーっとそれをイメージしていた。

陣痛の波が来るたびに筋肉運動をイメージしたら痛みが納得できて、「子宮の形、赤ちゃんの状態、今こんな感じかな?」なんて想像しながら過ごせた。

そして有難かったのが助産婦さんの見事なお手当て。

陣痛の波が来るたびに絶妙な箇所にふっと手を置いたり、
優しくさすったりしてくれた。

何も言わなくてもどんぴしゃの場所に手を置いてくれる。
必要以上には声をかけずにいてくれた。

おかげで陣痛そのものをじっくり味わう事ができ、
とても充実した時間だった。

そうこうしている時、妹夫婦が助産院に到着。

妹が陣痛のたびに手を握り、汗を拭いてくれた。
妹の旦那は足を骨折中で座る姿勢が限られるため、こじんまりとしたお産の部屋では無理な姿勢で長い時間いられず、部屋の外のソファーに座ることになった。どんどんお産が進んでいると感じた。

そして宮下先生が到着。同じ頃、陣痛の感じが変わってきた。
体の内側から自然と湧き上がるものすごく大きな力、どうにも止められない「いきみ」。そして腹の底から出る声。陣痛の時とは違う息遣いと声になった。これは部屋の外にいた妹の旦那も「声が変わった!何があったんだ?」と驚いたらしい。どんどんいきみが来る。

宮下先生が「いいよ、上手だよ」「そうそう、いい感じだよ。」と声をかけてくれる。息つく暇もなくいきみがくる。「あれ?彩華のときはこのくらいいきんだらもう出たんだけど・・・」。「うぅ~」「うぉ~」何度も何度もいきんでも「そろそろだよ」「頭が見えてきたよ」という声がかからない。何度いきんだろう?急に「私は便秘。出ないウンチはない!この硬いウンチもいつか出る!」と赤ちゃんの事をウンチと思うようになってしまった。

そしていよいよ「妹さん、そろそろだからこちら側に回っておいで。赤ちゃんが出てくるところ見たいでしょ?」と言う声が!

もうすぐ出てくるならと、妹は私に「旦那さんを部屋に入れていい?」と聞いてきた。

ここまできたらもう誰でも部屋に入ってくれ!と思うのだけど、いきみが間髪入れずくるので「いいよ」の3文字が言えない。今思えば手でOKサイン出せばよかったんだけど・・・

妹は私がいいよと言わないので、
旦那の入室はNGなんだと思っていよいよその時を迎える事になった。

宮下先生の会陰保護は神業のようで、
とても心地よく思っていたら頭が出た。

妹は彩華の出産のときも立ち会っていたので、
宮下先生の事を「神」のように思うそうだ。

頭が出てから、体がつるん!とは出ずに、ちょっと時間がかかった。
へその緒がたすき掛けのようになっていたらしい。

そして午前7時20分、無事に魁星(かいせい)誕生!

妊娠発覚から酷いつわり、長くて苦しい妊娠生活、
こんな毎日できちんと育っているのか?産めるのか?という不安、そしてこの状態から早く抜け出したいばかり考えていた自分の身勝手さに自己嫌悪になる日々・・・

胎動を愛おしいと思うより「痛い!つらい!」と思ってしまった私。
産まれてくる子を受け入れられるだろうか?愛せるだろうか?そんな事を心配する毎日だった。

「産まれたわよ!」と言われ、魁星がお腹の上に乗せられたら、突然音を立てて「愛おしいスイッチ」が入った。気持ちがころっと切り替わった。自分でもびっくりした。

そしてこんなに素敵な体験をさせてくれた魁星に感謝の気持ちでいっぱいになった。

つらかった事も、苦しかった事も、愛おしいスイッチが入ったら一瞬で忘れてしまえた。ただただ可愛い・・・

「あ~楽しかった!まだ2,3回出産したいなぁ」と出産直後にそんな言葉が出た。彩華の時も同じことを言ったっけ。松葉杖を突いた妹の旦那も部屋に入ってきた。

夜が明けて明るい朝、お産の部屋は薄明かりで産まれたての子に優しい部屋だった。

彩華が切るはずだったへその緒は、
宮下先生が切ってくれ「おめでとう」と声をかけてくれた。


そして計量・・・「うわぁ~、3,470gもあるよ!」と先生がびっくりした声を上げた。
私は身長152センチの小柄な体型、彩華は2,635gで産まれた。
大きさが全然違う。

こりゃ、産む直前まで苦しいはずだ・・・何度いきんでも出ないはずだ・・・

宮下先生も「この大きさじゃ、産むまでつらかったの納得だね」と。

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子どもは「自分に必要なウィルスを、必要な時にもらってくる」と聞いていました。

小さい頃に罹ったほうが軽くすむからと、誰かが何かを発症したと聞けばウィルスをもらいに行きました。子どもが数人で遊んだ後、1人が水疱瘡を発症し「ごめん!みんなに移しちゃったかも」と言われ、そのメンバーのほぼ全員が水疱瘡を発症した際も彩華は罹りませんでした。
「必要ではないのかな?」と思っていました。

そして出産前、幼稚園で一緒に遊んでいた子が水疱瘡を発症し、「ごめん!大切な時期にもしかしたら移しちゃったかも」と言われました。何度も何度も罹らなかったんだから、今回も罹らないかもと思っていました。


数日後、発疹が現れ「あ!今回はウィルスもらったんだ・・・」と驚きました。出産には立ち会えない事になりました。その時はまだ私はきちんと気づいていませんでした。

彩華の水疱瘡は、私の出産のためだったのだと・・・。

旦那には立ち会って欲しくなかった。
妊娠期間中、どんなにつわりが辛くても、まったく理解してくれようとしなかった。「頑張れ」の言葉が本当に本当に辛かった。

つわりが大変でも何だか他人事で「俺だって上の子の面倒を見るのが大変なんだ」といつでも「自分の方が大変だ」と言って優しい言葉すらかけてくれなかった。

何を伝えても、全然通じなかった。頑張れとは言って欲しくない、そう伝えても伝わっていない感じに、出産に立ち会って欲しくないと思った。でも、それをストレートには言えなかった。だって、その理由は言っても言っても伝わらなかったのだから。そしてそんな事は助産師さんにも言えなかった。「幸せな出産」は家族が立ち会って赤ちゃんを迎えるというイメージが強くて、旦那に立ち会って欲しくないと思っているなんて恥ずかしくて誰にも言えなかった。

「出産に向き合ってない気がするのよ」と言われ、
気づいてはいたけれどそんな事は言えなかった。

「どうしよう、私は本当にイヤなんだけど、立ち会わないわけがない。もうすぐ出産なのに本当にいや。絶対に立ち会うはず。そんな出産したくない」こんな想いが毎日膨らんでいた。

そんな想いが膨らみきった頃、彩華が水疱瘡を発症してくれた。すでに出産予定日を4日ほど過ぎた頃でした。

お腹の子も、彩華の水疱瘡潜伏期間には全く下りて来ず、発症して自宅出産から助産院での出産、家族の立会いは不可能という判断をした後に「この日」と決めて出てきてくれました。

ただ「立ち会って欲しくない」では、どんな理由を伝えても「俺の子だから」と言って旦那は私が嫌がっても立ち会ったでしょう。
でも、彩華が水疱瘡を発症し、新生児に感染する危険があるから「立ち会えない」となったらその彩華の面倒を見なくてはいけない、特に出産時に彩華と新生児を隔離しなくてはいけない状況から出産には立ち会えない・・・そうした「立ち会えない」というどうにもならない状況を、彩華が作ってくれたように思えてなりません。

彩華が何度も感染を希望してももらえなかったウィルスは、「5歳の10月」にもらって発症するためにその時を待っていたのかもしれません。
おかげで思い描いた出産、希望通りの出産ができました。

助産院での出産だったので、2泊は新生児との密な時間が過ごせました。いつも宮下先生が「2人目以降はすでに上の子がいるので「その子とお母さんが2人きりになる時間」がなかなかない、できれば入院期間中だけでも上の子抜きの時間を持って欲しい」とおっしゃっていたこの言葉の意味と大切さが、とても身に沁みました。

身体を張って(?)、私のお産を希望通りに叶えてくれた彩華に、心から感謝しています。

2016.09.10 投稿者:黒川喜美恵 徳島県(出産時は神奈川県)

私と主人は17歳差の歳の差婚2012年の12月に入籍しました。
2013年5月に挙式。2013年2月に妊娠がわかりました!

私の父と母は離婚し、
山梨の母の実家近くに引っ越してきました。

2年後母が男性を連れて家に帰って来ました。

私が小学4年生の時でした。
ずっとずっとお父さんとは呼べず
私の結婚式で初めてお父さんと呼んで母と父の指輪交換もしました!

バージンロードを歩く時も転ぶと危ないからって
いつも赤ちゃん気遣ってくれました。

ずっと乗ってたセダンからファミリーカーへ乗り越え、
陣痛がきたら直ぐに連絡するんだぞ!って
赤ちゃんの誕生を誰より楽しみにしてました。

赤ちゃんも順調に育ち臨月を迎えた予定日3週間前・・・
警察からの電話でした。

父が亡くなった。。。

泣いて泣いてもう息するのがやっとで
自分が妊婦であることを忘れてしまいそうでした。

後少しで出産。
お父さん何で今死んでしまうの。

病名突然死でした。

出産まで眠れない夜は
お父さんの事を思い出し泣いて泣いて。。

予定日にお印がきて陣痛が始まりました。

あと少しで会える!
そう思って居たのに10分間隔が3日・・・
丸3日陣痛で破水し娘が産まれました‼

喜びもつかの間胎盤が出ない・・・
初産癒着胎盤・・・。十数万人に1人の非常にレア。

そんな低い確率が私に・・・
娘の顔がどんどん見えなくなり、泣き声すら遠ざかる。

胎盤を掻き出す痛みにいつしか失神した私が居た。
出血が多く亡くなるケースがあるなか私は生きていた。

いや、お父さんが守ってくれたんだ。
自然に涙が溢れました。

お父さんありがとう。
そんな娘が今年七五三を迎えます。

2016.09.10 投稿者:れなのママ/山梨県

かなり愚痴っぽい話です。お許し下さい。

妊娠4ヶ月頃、血液検査でα-フェトプロテインの数値がかなり異常と言われました。
この数値が高いと、腫瘍や奇形を伴って産まれて来る事が多いとの事です。
この時、正常値の40倍以上の値が出ていました。

その後も、胎児の心拍が弱かったり、胎動がほとんど無かったり・・・。

そして、妊娠8ヶ月の時、
エコーで、胎児の頭部に異常がある事が分かりました。

個人の病院なのでMRIやCT等はなく、
ただ、「おおきな黒い影が見える」と。

詳しい検査が出来なかったので、
偶々胎児が逆子だったため、それをお腹の上から胎児を回転させながら治してくれる先生が隣市の大きな病院にいたため、
逆子矯正とMRI診断を求めて、受診しました。

MRIを見た先生は、
今の病院から直ぐに私が住んでいる市の市立病院に
転院するように言われました。

すぐに、それまで診て貰っていた個人病院から転院し、
色々検査した結果、

「頭囲ががかなり大きく、水頭症の基準よりも高い。
脳内に異常があるのは間違いない」という事が分かりました。

そしていきなり、

「もうちょっと早く分かったら、中絶出来たのにね。自然分娩なら死産の確立が高い。帝王切開だと、命は助かるかもしれないけど、寝たきりで短命かも。“だから”自然分娩にしよう」

と言われました。

私のお腹の中で、私の赤ちゃんに、何が起こっているのかさっぱり理解出来ず、ただただ、涙が出てくるだけでした。

そんな私に、看護師さんが慰めてくれる訳でもなく、
先生も何も感じていない様子で、
「今日の午後、母親学級があるから受けるように」
と命じてきました。

「死産」「短命」といった言葉が頭をぐるぐるし、

周りの妊婦さんは皆さん笑顔でご主人と一緒で
(私は当日いきなり「母親学級は今日しか受けれる日がない」と言われ、急だったので、主人は診察には仕事の合間を縫って何とか来てくれましたが、母親学級への参加は仕事の関係上無理でした)、

涙を見せないようにするのに必死でした。

自分で、帝王切開か自然分娩か、
選ぶ余裕も知識も時間もありませんでした。

頭囲がもっと大きくなると自然分娩は無理だという事で、
直ぐに入院。何もかも「人工」でのお産。

「ほにゃっ」と小さい産声をあげて産まれてきた娘、
直ぐにNICUに連れていかれました。

事情が事情だけに、
入院前に看護師さんが「お部屋は個室を用意します。差額は無しです」と言ってくれたのに、相部屋でした。
しかも、日中は赤ちゃん同室です。

看護師さんに個室の件を言うと、
「用意は出来るけど、差額料金は要る」と言われました。

私が入院した産科は、授乳時間になると、
ぞろぞろとママさんが授乳室に集まり、
一つの部屋でおっぱいをあげます。

私だけ、赤ちゃんがいない・・・。
顔は笑って心は泣いて、黙々と搾乳。

赤ちゃんがいるママさんが「おっぱいを吸ってくれない・・・」と泣き始めると、助産師さんがフォローするのに、

私は何のフォローもなく、赤ちゃんがおっぱいを吸ってくれないので乳腺炎になり、胸がパンパンに固くなってしまいました。

「搾乳が下手だから」と怒られ、「もうっ!」とおっぱいマッサージをしてくれましたが、激痛で涙が出てくる程で。

NICUでも、良い思い出はありません。

初めての子で、最初は保育器越しでしか面会出来ず、
やっと保育器から出る事が出来たと思ったら、
「オムツ、替えて」と言われ、初めてだったのでやり方が全く分からなくて、しかも大。戸惑っていたら、また怒られ。

でも、そんな冷たい病院に負けてなるものかと思ったのか、死産かもだとか、短命かもだとか、寝たきりかもだとか言われた娘、早21歳になりました。

てんかん(難治性)があったり、
口蓋裂で手術したり、
目の病気で手術したり、
耳の病気が見つかったり、
病院とは縁が切れませんが。

ちなみに病院は、
「この子は障がい児」と生まれる前から言っておきながら、
定期検診に、健常児の乳児検診と同じ日に来るように指示してきて、
会計では乳児検診扱いで自費払いで、
障がい者手帳の事も全く教えてもらえず、

私が偶々別の事で知り合った保健婦さんに障がい児の療育施設を教えてもらい、
そこで知り合った障がい児ママさんに「即病院変更を!」と
アドバイスされ、今は別病院です。


重い知的障がい・身体障がいを抱えてますが、
毎日を楽しんで過ごしてます。

駄文、お許し下さい。

2016.07.02 投稿者:Y.K./三重県

「卵で産めたらいいのに。」
そういったのは私でした。

妊娠したよろこびは確実にありました。仕事ばかりしていて、産前産後の休暇がもったいないとさえ思いました。
予定日3か月前。初めての妊娠で何が正しくて、何がおかしいのかわかりませんでした。
「お腹がキューってかたくなるんよ。」「ちょっとお腹が小さくなったと思うんだけど。」

そんなものだと思っていました。
次の検診日は4日後。「その時に見てもらえばいいわ。」なんて軽い気持ち。

でも周りの反応が違った。
とうちゃん。「病院いけ。」
わたしのかあちゃん。「昨日夢みたんよ。元気な男の子だったから。しんぱいせんでええ。」

大事なしごとがあるのに。。。
いつも行っているクリニックへ。

「すぐに大きい病院へ。」「迎えにきてくれる人いる?」

総合病院は歩いても行ける距離。
「自分で行きます。」「だめです」

人生で味わったことのない混乱。
とうちゃんに電話。

「これから産むかもしれんけど、大丈夫だから。
 こなくていいから。」

わたしのかあちゃんへ。
「病院へ自分で行ったらいけんっていうんよ。迎え来てくれる?」

パニックという言葉以外にはありませんでした。

そして。これから産むことになります。父ちゃん到着。

でもNICUのベッドがあいていないので、
救急車で別の病院へ。

救急車の中。

(ドクターへ)「もう産む?」  
「たぶん、産むことになります。」

まだ。まだ。まだ。まだ。とういう思いしか。

いわゆるインフォームドコンセント。
最悪の状況を伝えられました。

でも私たちは、現実逃避。

「仕事の調整するから」
「ベッドの上で3か月私もつかな。」
「仕事の書類持ってきてくれる?」

病院到着後48時間。
「これから産む準備に入ります。」

看護師さんから。
「お父さん泣いてたよ。お母さん強いね。」

強いわけもなく。
現実がわからない。
父ちゃんは手術のサインさせられたからね。

そこから、私が本心ではなく希望していた卵での出産。
まだまだ育っていない我が子。

保育器という卵の殻での3か月。

毎日、乳を運びました。

新しいお乳を。
たくさん飲んで。
お願いだから飲んで。

たくさんの管が。

一つずつ。
一つずつ。
取れていくことを喜びとする3か月。

卵で産みたいなんて言わなければよかった。

わたしのおなかの殻の中で育ってくれればよかった。

私が言わなければ。
私がもう少し。。。。。。。

後悔は断ちません。

たくさんのたくさんの方のサポートのもと
今は元気に保育園は通っています。

あの日のあの時のことを忘れてしまうほどに。

生まれてくれる喜び。

生きてくれる喜び。

ありがとう。
忙しい日常で忘れてしまいますが。


やっぱり。
産まれてきてくれてありがとう。

2016.06.29 投稿者:いそぜ/岡山県

おばあちゃん

私の祖母はアルツハイマー型認知症で、
ここ5年ほどグループホームで過ごしている。

色んなことを忘れてしまい、私の名前も出てこない程だ。
そんなおばあちゃんが忘れない言葉。
そして繰り返し聞く言葉。

「双子か?」

私は3年前一卵性双生児を妊娠した。
双子と分かった時は家族皆で大喜びした。
と同時に、悲しい記憶がフラッシュバックした。

25年前叔母が出産した一卵性双生児は生後2日、
生後2週間で空に旅立った。

嬉しいと同時に悲しい記憶。
叔母は私の不安を察したのか、全力で応援してくれた。

私の双子ちゃんは30週まで何の問題もなく、
すくすく大きくなり、二人でプロレスをしてるかの様によく動いた。

ただ、鈍いお腹の痛みを感じた次の日の検診で、次男の死亡が確認された。
悲しく辛かったが、次男はその後4週間も私のお腹で頑張ってくれた。
残された長男を可能な限りお腹の中で大きくする為に。

私の出産は、出会いと別れが1度にくる、とても複雑なものだった。
長男は元気に産まれてきたが、脳に大きな障害をもっていた。
次男が亡くなったとき、長男も一緒に1度亡くなった。
だけど、長男はこの世に戻ってきたのだ。

それからは毎日がハードすぎて、断片的にしか思い出せない。
あんなに悲しい体験をして、心を身体もちぎれそうだったのに、
初めての子育て、息子の体調、リハビリ、仕事、家事に追われ、
次男のことを想う回数が少なくなっていった。

帰省の度に息子を連れて祖母に会いにゆく。
祖母との会話はいつも同じだ。

「あら?誰かな?」 「ゆちこよ」
「ゆち、子供産んだんか?」 「うん」
「双子か?」 「違うんよ」
「男の子か?」 「うん」
「双子か?」 「そうよ」
「ほな、そろそろ帰りなさい」

毎回この会話。毎回涙を堪える。
叔母は毎回涙を見せる。
祖母は色んなことを忘れても、孫の私を案じてくれている。

日常に追われる私に、天国の息子がくれる祖母との優しい時間。

おばあちゃん、ありがとう。
おばあちゃん、元気でね。
またこの会話をしようね。

2016.05.16 投稿者:ゆち

待望の我が子は二卵性双生児でした。

28週で切迫入院、32週で緊急帝王切開にて産まれました。
肺の機能が未完成な為産まれてすぐにNICUへ。

次女は産声もあげたのでまずはひと安心。

長女は仮死で産まれ、
低酸素状態が続いた為障害が残る可能性があると医師に告げられました。

次の日には肺出血の為救急搬送され輸血。
毎日の次女への面会は楽しみだったけど触れることはまだできません。

長女にいたっては顔も声もぬくもりもわからない我が子を
我が子とも思えなくて苦しかったです。

ただただいつ飲むのかわからない母乳を
義務的に絞るだけのむなしい日々を過ごしていました。

たくさん自分を責めました。

長女には生後1週間してやっと顔を見に行くことができました。
正直会うのが怖かったです。

もし障害があったら…ばかり考えて、
母親の自覚も受け入れる覚悟もなくて情けない自分もイヤでした。

緊張しながら長女に初対面。
なんとそのときの長女、
おめめをしっかりあけてわたしの顔を凝視してきたのです。

喝を入れられた思いで泣いてしまいました。

大丈夫だよ。信じてよ。しっかりしてよ。

確かにその目にそう言われました。

その後は容態もいったりきたりしながらも回復し、
いまではなんの問題もなく健康そのものです。

いまでも子どもたちには頭が上がりません。
たくさんの手を借りてここまでこれて、すべてに感謝です。


2016.03.03 投稿者:こころ/群馬県

昨年11月に18トリソミーの長男を出産しました。

3歳の娘がいますが、好きな時に会えたり、抱いたり、一緒にお風呂にはいったり遊ぶ事もかなわない状況の中でも、弟のために10日毎に欠かさず“メダル”を工作してくれてます。そのメダルも10個目を飾る事が出来ました。

私は、里帰り先での出産だったために主人には半年以上も単身生活をしてもらってます。

私達家族の目標は『みんなで家に帰ろう!』です。
18トミソリーであっても、前向きに支えて下さる病院の先生や看護師さん、家族のお陰様で、本当に実現しそうなところまで来ています。

どんな形であれ、まずは今を大切に、今出来る事を精一杯やるだけです。それも、我が家の長男が生きる姿を見せてくれているからです。長男に関わって下さる全ての方々は、頑張る子には頑張って支えようとしてくれます。笑顔には笑顔で返してくれます。素敵な出会いと繋がりがありました。この地を離れるのは寂しくもあり、不安です。
でも、家族の在るべき場所に帰る!必要な大きな一歩だと感じてます。

18トミソリーの子だからって、望んではいけない事は無いって教えて頂く毎日です。
3歳のお姉ちゃんも、大きな支えとなってくれる(すでに支えられてます…)って信じてます。

2015.03.02 投稿者:クロシロ/千葉県

あたしは次女を死産しました。

上の子供たちは中学生と小学生です。再婚して出来た子供でした。結婚する前は長男に再婚を反対されていました。しかし赤ちゃんが出来たと伝えると二人とも喜んでくれました。(それまでにいろいろありましたが……)

それからバタバタと一緒に棲む準備をして、お腹の赤ちゃんと子供たちと家族5人で今まで感じたことのない幸せな時間を過ごしました。

お腹の赤ちゃんが動く度に、あたしのお腹に耳を当てて喋る子供たちを見ると、ほんとに沙穂(次女の名前)は天使だと思ってました。上の子供二人は病院で産んだんだけど、今回は旦那と子供たちと出産をしたくて助産院をえらびました。助産院に行く時に着いてくる子供たちでした。

あたしのお腹が大きくなる度にまだかなぁ?ってほんとに楽しみにしているのが、誰が見ても分かるぐらいでした。長女の方はまだまだ甘えたいようで複雑な心境のようでしたが……
産まれたらお姉ちゃんになっていってくれるかな?なんて考えていました。

上の二人はお腹に居るときは早産にならない様に、クスリを飲んだり点滴したりで大変でしたが、沙穂は元気に何もなく大きくなってくれました。
しかし、予定日が近付くにつれて体の浮腫がひどくなってかました。足はまるで象のようになってました。

気になって助産婦さんに聞いたりしましたが大丈夫との事……。臨月になってもアタシの子宮はやわらかくならずこのままだと予定日は過ぎるかもっなんて言われていたので、早く会いたい気持ちがあって、助産婦に子宮口がやわらかくなるようにツボを押してもらったりお灸をしてもらったりしていました。

それでもなかなかならなかったので、仕方ないかぁ!
沙穂がでて来たくなるまで焦らず待とう!

って思って、2日に1回行っていた助産院を普通通りに通うようにしました。

予定日前の検診の日は、丁度エコーの機械が壊れて見れないから心音だけ聞きました。
元気に動いていました。
次の検診は予定日ねと……

予定日の2日前ぐらいに陣痛かな?って痛みがあったのと、胎動があまり感じられなかったので助産院に連絡しました。赤ちゃんが出産にむけて準備してるから、あまり動かなくなる軽い痛みで間隔もバラバラだったので、もう少し様子を見てと言われました。

あたしはそうなんだぁって安心してしまい、沙穂の苦しみに気付いてあげれませんでした。
次の日の朝に、お腹の動きがいつもと違いました。
沙穂の身体全部が、アタシが横を向くとそっち側になるような?そんな気がしていました。

それをうごいていると、あたしは勘違いをしてしまいました。
予定日になり助産院に行き、いつもの様にエコーを見ました。
助産婦さんの顔つきが変わって、他の部屋に案内されて、また何度もエコーの心音を聞いてくれたのですが……。

それから直ぐに、病院に行くからと言われて……。
心音が聞こえないからって。

よく話が分からない……
意味が分からない……
わかりたくない………………。

家族に連絡してと言われて、旦那に電話をしましたが仕事中の為に直ぐに出れなかったようで、実母に連絡して、もうそこからは涙で言葉になりませんでした。

頭では分かっているのに、気持ちがついていかなくて……
なにかの間違いに決まってる。
沙穂は生きてるって……

実母が来る少し前に、旦那から電話があったので説明しないといけないのに言葉にならなくて、動いてない……心音が聞こえない……
それしか言えませんでした。

そこからは病院に行ってエコーで見てやはり心音が聞こえないと……。
赤ちゃんが自分で出れないから、お母さんが出してあげようと言われ促進剤を点滴しました。

旦那がずっと側にいてくれましたが、あたし自身気力がなく出産出来るだけの力がありませんでした。
陣痛の痛さは、会える喜びと産まれてくる幸せな時間があるから頑張れる。そう思っていました。

旦那に泣きながら伝えると
ちゃんと産んであげないと……
辛いけどちゃんとしよと言われました。

それから間もなく、沙穂は産まれました。
もしかしたら泣いてくれるかも?
と思い沙穂を見ました。

沙穂の首にはへその緒が巻きついて、そこに足も引っ掛かっていたように見えました。

看護婦さんは見せないように沙穂をつれて行き、旦那だけにその姿を……
あたしの側に沙穂が来た時はきれいにしてもらっていました。それから退院するまでの三日間は親子3人で過ごしました。

沙穂をだっこしたいのに、壊れてしまいそうで怖かったのを覚えています。キレイなままの姿で神様の所に行ってほしくて……
ほんとは抱き締めて離したくなかった
そんな願いは叶いませんが……。

アタシは入院している為、葬儀の準備が出来なくて旦那がすべてしてくれました。
沙穂に持たせるオモチャやお花やお菓子などは、旦那と一緒に買いに行きました。
看護婦さんが手伝ってくれて沙穂はキレイな服を着て、黄色いヒマワリの花の中で眠りました。

家に連れて帰ってから子供たちに説明しなくてはと思い、話をしようとしたら分かってるから話さんで……
聞きたくない、いやな予感がしたんよって……。
そこからずっと泣き続けてしまいました。

最後のお別れがすんでから毎日毎日泣いてばかりで……。
なにもする気になれず
どう過ごしていいのかわからなくて……

月日がたち日々の生活が戻ってきましたが
寂しさは変わりません。

でも前向きに生きていかないと、沙穂が寂しがるから……
沙穂はきっとまた、あたしたち家族の元へ帰って来てくれるって信じて生きて行きたいって思います。

あたしは、命の大切さ家族の大切さ友達の温かさを沙穂に教えてもらいました。
今ある幸せなを当たり前じゃなく、奇跡なんだということを教えてもらいました。
いつかまた会える日を思って、毎日を一生懸命に生きたいと思います。

天使になった沙穂へ
苦しい思いさせてごめんね。

かあさんが早く気付いていたらと、思うと悔やんでも悔やみきれません。そんな事言ったら沙穂はきにしちゃうかな?ほんとは抱き締めて離したくなかったよ
あいたくてしかたないよ……

沙穂は寂しくしてないかなぁ?
かあさんはそれが心配です。
早く沙穂に会いたいです。

もし生まれ変わりがあるのなら、沙穂がまたかあさんのところに来てくれるの待ってるよ。
愛しいわが子に会いたいです。
こんなかあさんでよかったら帰ってきてね。

とうさんも、にぃもねぇも待ってるよ
大好きだよ

2015.02.18 投稿者:はな/岡山

2014年3月1日
覚悟の中、長女を出産しました。
妊娠30週、お腹の中の長女は18トリソミーの可能性が高いと産婦人科医師に宣告を受けていました。羊水検査が間に合わず、長女は18トリソミー疑いのまま、この世に生まれてきました。

生まれてきた長女は、染色体検査の結果18トリソミーではありませんでした。
しかし、やはり脳に深刻な障害がありました。

小脳低形成を含む脳形成異常
難聴

発育は著しく遅れ、今も体重は5キロちょっと
しかし、長女は力強く生きています。

ゆっくりながら、手足を動かし離乳食もハムハムしながら食べ、毎週のリハビリも一生懸命頑張っています。

私はこの子のおかげで、すべての子ども達は愛されるべく生まれてくる。
子ども達は生まれもって生きる力、成長する力をもっている。
たくさんの事を学びました。

この子は、たくさんの人に愛され、それと共に、笑顔や愛をもたらしてくれます。
この子はたくさんの繋がりをもたらしてくれました。
この子はたくさんのあたたかい気持ちを与えてくれます。

もうすぐ1才の誕生日を迎える今、この子と共に歩む1日1日を大切に、楽しみに思えます。

この子に出会えて良かった。
この子を生んで良かった。

2015.02.16 投稿者:りんりんママ 栃木県

2014年2月14日1時58分

21時間の陣痛に耐え、ずっと会いたかった息子に会えました

「ホャァホャァ」このか細い泣き声が、私が聞いた最初で最後の息子の声でした

自発呼吸ができず、顔面蒼白
約40分心肺蘇生をし、救急車で総合病院に運ばれていきました

出産から約6時間後 息子の病名が知らされました

横隔膜ヘルニア

初めて聞く病名にピンとこず大丈夫だろうと思っていた私は
夫から言われた「いつ急変するかわからない。」の言葉にショックを受けました

ただただ病室で祈ることしかできない

なんて無力なんだろうと涙が止まりませんでした

NICUに面会にいった夫が撮ってきてくれた動画には
人工心肺で一生懸命生きようとしている息子の姿が写っていました

目をパチパチとし、手足を動かしている姿をみて
我が子ってこんなにも可愛いものかと驚きました

21時

病院からの電話…
「容態が急変しました。お母さんもきてください」

それまで、起き上がるのも座るのも歩くのも、体の色々なところが痛くてやっとだったのに
この時は自分で着替え、小走りで息子のところに行きました

あっ、私お母さんになったんだなとどこか冷静に自分を見ている私がいました

21時58分

息子は私たち夫婦のうでのなかで静かにお空に旅立ちました
本当に眠っているような、穏やかな顔をしていました

悔しくて悲しくて、何で私たちなんだろうと泣く日々が続きましたが
ブログを書くことで同じ経験をした人たちに出会い
少しずつ前に進めるようになりました

そして今また新たな命が、私たちを選んできてくれました
きっとお空で息子が導いてくれたんでしょう
来年は家族4人で桜がみたい

命の大切さを教えてくれてありがとう
私たちを親にしてくれて本当にありがとう

2014.08.20 投稿者:しほ 鳥取県


第2子を妊娠。双子だとわかったのは妊娠4ヶ月でした。
助産院で家族に囲まれ、自然な出産をしたいと思っていました。いろいろ悩みましたが、双子であることで出産までに何があるかわからないので、緊急時にも対応できる病院での出産を選択しました。

妊婦健診では、お子さんも小さめだけど順調です。お母さんの体も大丈夫ですね。といつも言われていました。トラブルなく、母子ともに順調に経過していたのです。

安静のため、妊娠33週で病院に入院しました。

その後徐々に浮腫や高血圧症状が出現。
妊娠高血圧症候群でした。俗に言う妊娠中毒症です。

赤ちゃんが小さめなため、私は少しでも長くお腹の中で育てたく思っていて、38週での出産を希望していました。先生からそこまで持たないと言われ、呼吸機能が安定する36週で手術することを告げられ、手術予定日が決まりました。

状態が改善していく事を祈っていましたが、症状はさらに悪化し、母子共に危険になると、35週での緊急手術になりました。

お腹の中でもっと大きくしたいと言いましたが、ママのお腹の中は、赤ちゃんにとって苦しいんだよ。
外に出ても大丈夫。その方が赤ちゃんにとっても、お母さんにとってもいいんだよ。先生や看護婦さんに説明された事、今でも忘れません。

帝王切開での出産。赤ちゃんも元気に産まれました。

無事に産まれた事での安堵感に包まれていました。

手術後の夜中に私の容態は急変…意識不明になりました…弛緩発作を起こしたのです。

私が目を覚ましたとき、体にはたくさんの機械が付いていました。後日詳しくきいて驚きました。

私の命に危険があったのだと。

出産していなければ、赤ちゃんの命も危険だったのだと。


出産は、命懸け。

子どもを抱き締められる。

共に歩んで行ける。

命があることに感謝しています。

早期に決断してくれ、懸命に治療して下さった先生。

感謝し、今を大切に生きていきたいです。

2014.07.21 投稿者:はな/栃木県

なかなか授かれず治療をしました。
結婚して2年。

やっと私達のもとに来てくれた小さな命。
ゆっくりゆっくり大きくなり、周りにも元気に生まれておいでと、しあわせいっぱいに育っていたお腹のベビー。

検診でも何も問題なく、予定日を超えても元気に動いていました。

予定日から5日後の朝、突然の寒気の高熱で目が覚めた私。
そして、おしるし。

急いで病院に行き見てもらいましたが、子宮口は開いておらず、微弱の陣痛があったので即入院…

吐き気と寒気、高熱。ものすごく腰も痛い。

一晩病院で耐えてから、翌日朝から誘発剤をはじめました。

なかなか子宮口は開かず、16時全開になり、分娩台へ…

3回いきんだら出てきてくれた我が子。

泣き声はありませんでした。

顔は白っぽくなり、周りは慌てて、たくさんの人に処置されて、大きな病院に救急搬送…


重症新生児仮死
低酸素性虚血性脳症


低体温治療をしましたが、言われた言葉は

「自発呼吸はありません。ですが心臓は動いています。
目も開けることはないでしょう…」

何を言われているかわかりませんでした。

でも、
なぜか…、
この子はこうやって生まれてくるんじゃないかって、想像していた私でした。

生まれてから1ヶ月目、我が子は目を開きました。

びっくりしすぎて、急いで看護師をよんだくらいです。

生まれて1ヶ月、気管切開をしました。

しかめっ面をしたり、口をチュッチュとならすようになりました。

それから5ヶ月…、我が子は呼吸器をつけて在宅をするため、やっとやっとお家に帰ってこれました。

脳波はフラットのまま。
脳の大半は髄液に吸収されていて、脳死に近い状態。

ですが我が子は、
笑ったり、怒ったり、泣いたり、

たくさんの奇跡をおこしてくれています。


呼吸器の離脱はできません。
おしゃべりをしたり、自ら物に触れることすらできません。

立ち上がったり、座ったり、食べたり

なんにもできません。

ですが、医学では証明できない奇跡をおこしている我が子。


生まれてきてくれてありがとう、と心からおもいます。


私はしあわせです。


毎日、生きている事の幸せをかみしめて、我が子との時間をのんびりすごしています。


そして、来年にはそんな我が子もお兄さんになります。

不安は耐えませんが、新しい命も大切に、みんなが笑っていられたら、いいなとおもいます。

2013.10.18 投稿者:かにゃまま。

16歳から排卵障害で、長い間産婦人科に通って、22歳でようやく妊娠。
出産は少し遅れてバルーン、促進剤を使いました。

しかし、無駄に激しい陣痛が4日続くだけで、なかなか産まれませんでした。
子宮口が開いてからはすぐに出産しましたが、その後、なかなか痛みがひかず突然感じた事のない激痛が!
陣痛なんて痒いくらいの痛みです。

周りでは助産師さんや医師がバタバタしているし、私は叫びまくって意識を失いかけました。

後から知りましたが、子宮内反だったようで生死をさまよっていたようです。経験者も少なく全く情報はありませんでしたが、やはり病院で産んで良かったです。
助産院だったら、間違い無く死んでいたでしょう。
やはり命がけです。

2013.10.15 投稿者:りさ/宮崎

私は孫がいる主婦です。
53歳の誕生日を、出産を控えた娘の家で迎えました。

慣れない異国での生活と、もうすぐ娘の出産が始まるであろう緊張感から、昔からよく見るあまり愉快でない夢を繰り返し見ました。

その夢は、小さい時は本当に怖いものでした。
この夢を見ると必ず体調が悪くなります。
体調が悪いと必ずこの夢を見ます。

この夢とは、
暗く、生ぬるく、ピンクで、ふんわりしているのか沈んでいるのかわかりません。
ぼんやりとしているけれど不安でいっぱいです。

場面が変わり、ペンキを塗る時に使うスポンジのローラーのようなものが縦に2本立っています。大きな大きなローラーに巻き込まれます。
息ができないほどではないけれど、体の自由がききません。
体をよじります。
頭のずっと上の先は、ぼんやりと明るいです。

寝返りをうちながら「またこの夢か。」と思います。

私がこの夢が「出産時記憶」とわかったのは、幼児教育を学んでいた20歳の頃です。
当時は胎内記憶の話題があまりされていませんでしたが、幼児教育を選択したことで知ることができました。

胎内記憶は5歳くらいで消えると言われますが、私はその夢を繰り返し見ることで刻印付けされたのでしょう。

自分の誕生、娘の誕生、そして孫の誕生と実感でき、今はこの夢も怖くありません。
ほとんど見なくなりましたが・・・

半世紀以上前の胎内記憶を持つバーバでした。

2013.09.30 投稿者:KEI 京都府

一昨年の12月、妊娠4ヶ月の赤ちゃんの心音が止まっていた体験を書かせていただいたポンカンです。
2度目の流産で、不育症だったらどうしようとか、周りからもいろんなことを言われ落胆ばかりしていましたが、先月7月1日、3746㌘の大きな男の子を無事出産することが出来ました。

私のお腹に来てくれたことがうまれたことで有り難いんだ、このことをみんなに知ってもらいたいと思い、上映会の日程を調べては友人知人にお伝えしていました。
昨年4月に岡崎市で行われた、映画「うまれる」の上映会ボランティアスタッフとして応募させていただき、お手伝いさせていただきました。
映画の後は池川明先生のご講演もあり、サイン会ではお腹の中で亡くなっていた赤ちゃんの名前とうまれてくれてありがとう。とご著書に書いていただきました。

昨年11月、思いもかけず3度目の妊娠していることがわかり、予定日もお腹の中で亡くなっていた赤ちゃんと同じ6月でした。きっと帰ってきてくれたんだと嬉しくなりました。
でも妊娠後期まで、ちゃんと生まれるかなぁという不安はいつもありました。

6月30日の朝1時、破水したことで目が覚め病院へ。そのままNSTと点滴を取り付けられ陣痛室で待機しました。定期的な陣痛が来だしたのが夕方の5時頃、翌朝6時頃にやっと分娩室へ行き予定日より4日遅れて8時27分に生まれました。
あとから助産師さんが言われるのに、あれだけ赤ちゃんが大きいのとお母さんの体力からだと昼までかかるかと思ってたのに最後が早かったね~と。
その日は、主人の母の胃ガン摘出手術が午後からあり、主人は出産に立ち会ったら義母の病院へ行くようにしていたので、赤ちゃんも頑張ってる早く出てきてくれたのだと思います。

主人の母の手術も無事成功し、2週間後退院しました。毎日、孫を抱っこするのが楽しみで、私もとても助かっています。
生んでくれた母にも、こんなにして産み育ててくれたんだなぁと感謝でいっぱいです。
お腹の中で亡くなった2人の子どもたちにも感謝です。
長男が胎内記憶を話してくれるのが今から楽しみです。
映画「うまれる」に出会っていて良かったです。

2013.08.04 投稿者:ポンカン

12年前、娘を出産したとき、夫は緩和ケア病棟に入院していました。
出産の2か月前、がんの骨転移による骨盤骨折で入院していた彼にずっと付き添っていた私。
入院した時に主治医には
「出産までは、(夫の命は)持たないかもしれません」と言われました。

出産に立ち会いたいという夫の願いをかなえるため、急きょ夫の入院していた病院の産科で
出産をすることになりました。

その総合病院の産科は当時立会出産を受け入れておらず、ずいぶんスタッフの抵抗も
強かったようですが、緩和ケア病棟の主治医の依頼もあり、出会ったばかりの産科の主治医が
「うちじゃないとできないことなんだ。サポートしてあげよう」と助産師さんたちを説得してくれたと
後で聞きました。

微弱陣痛が丸二日続き、ようやく分娩台に上がると、すでに子宮口は全開していたようで
夜中の3時でしたが、緩和ケア病棟の主治医が車いすの夫を連れてきてくれました。

そして、無事に夫は出産に立ち会い、念願のへその緒も夫が切ってくれました。
家族3人で唯一行えた共同作業だったのかもしれません。

出産のちょうど3ヶ月後、夫は天国に旅立ちました・・・。

娘は4歳くらいまでは、パパの姿が見えていたようです。よくお話もしてくれてました。
「ママには本当にパパが見えないの?」とも言ってました(笑)

そして、私が再婚してほどなく・・・。ある日娘が、起きるなり

「○○ちゃんは、パパが死んじゃうのがわかってた。だから早く生まれてきたかったのに。
もっと早く生まれてきたかったのに」と大泣きし・・・そして、その日からパタっとパパの
ことを口にしなくなりました。
パパが気を使ってくれたんでしょうね。早く新しいお父さんに慣れるようにと・・・。

娘を授かったとき、夫の体にはがんが全身転移してました。
治療もできない状況でしたので、出産することに躊躇はありました。
「シングルマザーになることがわかっていて子供を出産していいのか」とも思いました。

でもやっぱり出産してよかったと心から思ってます・・・。

そんな娘ももう中学生。
もうすぐ夫の13回忌です。
いつか、生まれてきたときの話をしてあげたいと思ってます。

2013.04.19 投稿者:みみすけ

三週間ほど前に、第一子の男の子を出産しました。

妊娠23週の頃に羊水がないと診断され、大学病院で精密検査を受けました。
診断結果は、ポッター症候群。
赤ちゃんの腎臓が機能しておらず、羊水が作られない。

その結果、肺が未発達で、産まれても生きられない、予後不良とのことでした。
また、ポッター症候群の場合、胎内死してしまうことも多いことや、羊水がないため赤ちゃんには、奇形が出る可能性もあるということも、告げられました。

私の場合、その時点で妊娠27週でしたので、先生もこのまま経過を診ていくしかないという判断でした。

先のない命とどう向き合っていけばいいのかわからない時期もありましたが、毎日元気な胎動を感じ、この子を産んで、一秒でもこの世に生きてもらって、私たちの戸籍に載せるということが、私たちの目標になりました。

無事、帝王切開にて38週で生まれてきてくれました。

先生のお話では、赤ちゃんは生まれても泣き声をあげることはできないし、生きられても10分、15分くらいじゃないかとのことでした。

赤ちゃんが生まれてすぐ小児科の先生が私に赤ちゃん見せてくれました。
小児科の先生も一応、赤ちゃんを診察してくれましたが、やはり予後不良とのこと。

でも、赤ちゃんは、私の腕に抱かれると、弱々しいながらも泣き声をあげました。
どうしても、赤ちゃんが生きている間に主人や家族に会わせたかったので、赤ちゃんを主人たちのところへ連れて行ってもらいました。

きっと次に抱っこするときは、もう息を引き取っているだろうと思いながら、赤ちゃんを見送りました。
帝王切開の処置がだいぶ時間がかかり、私が病室に戻ったのは、出産してから2時間ほどしてからでした。

意識が朦朧とする中、主人が赤ちゃんを抱っこしてきて、『頑張ってママのこと待ってたよ』って赤ちゃんを私の腕に抱かせてくれました。


それから程なく、天国に旅立っていきました。


妊娠中、お腹が張ったり、痛くなったりというトラブルも全くなく、臨月まで持たないと言われながらも生まれ、10分、15分しか持たないと言われながらも、2時間も頑張った親孝行な息子に会えて、とても幸せです。

私たちの目標だった、戸籍に載せるということもできましたし、悲しみは消えることはありませんが、不思議な達成感を感じています。

またいつか私たちのところに帰ってきてくれると信じ、前向きに頑張っていこうと思います。

2012.11.19 投稿者:銀子

2005年6月に長女を出産し、元気ですくすく育ち現在小学校一年生。

今から遡る事4年前の11月に長男を出産しました。
今生きていれば元気に年少さんで幼稚園に通っていた事でしょう。

長男な妊娠中は検診で全く異常はなく、唯一切迫早産で入院したぐらいでした。


37週に入った当日に出産。
外の世界に出てきた息子は肺機能が未熟で自発呼吸ができず、すぐ救急車でこども病院へ搬送されました。
主人が病院まで付き添い、戻ってきた主人の話で愕然としました。

息子は人工呼吸器で体には様々な管が通され検査している事、足の指が一本多かった事、
泣きたくても呼吸ができないのでとても苦しそうな顔していた事・・・・


その様子を見ていた主人は看護師さんに言ったそうです。
「長く生きられないのなら延命治療はやめてほしい。早く楽にしてあげてほしい・・・」と。


翌日病院にかけつけ、息子のあまりにも痛ましい様子に涙がとまらず
長女にはとても見せられないと、夫婦だけで息子と対面しました。

抱っこも出来ず、おっぱいもあげられず、悲しくて悔しくて可哀想でどうしてやる事も
できない自分を恨みました。


主治医から検査結果のお話があり、病名は「13トリソミー」でした。
13番目の染色体が一本多いという染色体異常です。


どうにか奇跡が起きて、自発呼吸ができるようにならないかと一晩祈り続けたその翌日
病院から呼び出された私と主人は、主治医の計らいにより、息子を抱っこさせてもらい
主人から私の腕の中へやってきた、その数分後、静かに息を引き取りました。


生後二日の命でした。


主治医の話では、13トリソミーの場合、特に男の子はおなかの中で亡くなるケースが
ほとんどを占めている事。
はっきり言って、私には生きて会わせる事は無理だと思っていたそうです。


生まれてこれる確率がほぼ無い中で、私の息子は命がけで私達家族に会う為に生まれてきてくれました。
そして二日も頑張って生きてくれた。

そのおかげで、出生届けを出して戸籍に名前も残してやれました。
息子がわずか二日でもこの世で生きた証を残してやれました。


冷たくなった息子を抱っこした長女は当時3歳。ものもわからぬ年頃のはずなのに
しっかりと弟の死を受け止め、産後の私の体を心配し、私に心配かけぬよう、私に背中を
向けて泣いていました。

長女がいたから、私も主人も息子の死を乗り越えられました。
この子の為にしっかりしなくちゃ、私がダメになってはいられない・・と。


今は2歳になる次女と元気に遊んだり、ケンカしたりしています。
この決して当たり前ではない幸せを息子に感謝しながら、家族4人日々を過ごしています。


長文、乱筆失礼致します。


2012.11.16 投稿者:ジャイアン

二年前に右卵巣ガンになりました。付き合っていた彼と結婚を考え始め、妊娠検査薬が陽性。近くの産婦人科で、お腹に赤ちゃんがいることがわかりました。お腹が大きくなっていたので、5ヶ月とかになってたらどうしようとか思ってお腹をさすったのも束の間、『赤ちゃんはまだ1ヶ月くらい』『赤ちゃんの横に大きなものがある』と。すぐに大きな病院を紹介され、その日の夜に受診。MRIを撮って医師から告げられた事は、その時の私にとって残酷なものでした。
約20㎝の腫瘍がある。赤ちゃんはその隙間で一生懸命生きている状態。腫瘍はガンだろう。今すぐ手術をしなければ、私の余命は短期間になるだろう。赤ちゃんは手術に耐えられず亡くなるだろう。私の余命は、手術してみなければわからない。
MRIには大きな腫瘍の横に小さな赤ちゃんが写っていました。
翌日、私は右卵巣切除+中絶手術を受けました。その後、右卵巣未熟奇形腫という珍しいガンだと告げられました。
抗ガン剤で、髪は全部脱けました。副作用で吐いて、痩せ、皮膚は黒ずみました。ふらついてトイレにもいけなくなりました。
こうやって死んじゃうのかな。赤ちゃんもできないし、こんなだし、彼とは私から別れてって言おうって独りで泣いて
そんな私に彼は『ジャガイモ』というあだ名をつけ、『あんな傷んだ髪、毛根から生やしなおせ』って笑
『絶対に元気になるから。赤ちゃん産めるから。笑うとガンが消えるから。俺がいっぱい笑わしたるから』って、毎日病院にきて、変顔して、私の頭を『ジャガイモ』って言いながら触る。そうやって辛い治療を乗り越えられました。
一年後、彼との赤ちゃんを妊娠しました。
医師から『妊娠中はガンの検査ができない。でもカワイイ赤ちゃんを産みましょう』と言われ始まった妊娠生活。
妊婦検診のたびに『赤ちゃん元気に育ってますよーに』『再発してませんよーに』って
願いました。卵巣が一個しかないけど大丈夫かな。この手術痕、開かないかな(笑)
今、私の隣にはハイハイしてる元気な男の子がいます。
私には奇跡としか思えない今です。
でも旦那さんはそうは言いません。

『こーなると思ってた』

あの時も今もホンマにありがとう。
そんな気持ちをたまに言うと、また変顔して『車買ってな』やって笑

私もいつか死にます。その時無事に『お母さんありがと』って言ってくれるおじさんに育ってくれますように。

実は卵巣腫瘍は、若い女性に多い病気で、ほとんどが良性です。
でも良性であっても治療は卵巣の切除手術がほとんどです。
卵巣が片方になっても、二つの時の70%の役割を果たしてくれるそうです。
赤ちゃんも産めました。だから同じような境遇の方は諦めないで欲しいです。

2012.09.22 投稿者:エリ

昨年秋、予定より1ヶ月早く出産しました。
初めての妊婦生活は辛い出来事ばかりでした。
311の震災にはじまり、その10日後義父が病気で亡くなり、その約3週間後に義母が亡くなり...。
その間、母子避難を何度かしました。そして夏、急遽本格的に福島から知人すらいない北海道へ避難。
主人は仕事があるため福島と北海道を一週間おきぐらいに往復、妊婦にとってはとても淋しい生活でした。
放射能を気にせず出産を迎えられると思っていた矢先に破水。何とか冷静になり産院へ電話をし状況を話し、即入院。この日主人は福島で仕事でしたが夜には駆けつけて来てくれました。
胎児はまだ35週、この産院にはNICUがないので大きな病院へ転院。転院したその夜、自然分娩で無事赤ちゃんを出産することができました。生まれて来た赤ちゃんとの命綱、へその緒はクリップでとまり切らない程太かったそうです。
これで一安心と思っていたのも束の間、一週間後、心室中隔欠損症の診断。運が良いのか悪いのか分かりませんが、我が子は小さい穴だったので自然治癒することができました。
私の妊婦生活、ひとりの時は殆ど泣いてばかりでした。今はカワイイ笑顔に毎日癒されています。

2012.07.12 投稿者:sherry

昨年出産しました。
しばらくは夫婦で暮らそうと思っていた矢先、突然「女の子が欲しい!」と強く思い、自分が女の子と手をつないで歩くイメージが浮かんできた時期がありました。
すると間もなく妊娠が発覚。喜びもつかの間、激しいつわりに襲われ、暫くほとんど点滴の暮らし。
つわりがおさまり、少し妊婦を楽しめるようになったら今度は切迫早産で入院。
病院で震災を経験しました。看護士の方々と恐怖の瞬間を乗り越えました。
埼玉なので震災はそれほど大きな被害の出なかった地域とはいえ、
もし入院していなければ、仕事でお客様の避難誘導や安全確保に勤めなければならず、
お腹の心配などしていられない状況だったと、後で同僚から聞かされました。
「不幸中の幸いだよ。お腹の赤ちゃんがママを守ってくれたんだよ」と同僚が言っていたのが忘れられません。
震災で多くの人々が犠牲になるなか、授かったこの命を大切にしなければ!と強く思いました。

不安な日々も過ぎ、いよいよ出産。陣痛で苦しむ私を義母がさすってくれたこと、これも命のつながりを感じる瞬間でした。
懸命にいきんでうまれてきた赤ちゃんは「女の子」!
当初のイメージは、女の子を授かるという予言だったのでしょうか。
今でも不思議でなりません。
私が夢に見た、ちびっちゃくていたずらで、よく笑う娘との毎日。奇跡としかいいようがありません。

2012.06.20 投稿者:ねごねご

2人目の出産は助産院で水中出産と決めていた。

助産院さんの方針で2人目からならOK。
但し、母子ともに健康・37週を過ぎている・破水してないこと。が条件。

39週と6日目の夜中1:40お印があり、夜勤中の主人へTEL。
お印を伝えて様子を見る。
慌てている主人の様子が伝わってきて、私もそわそわ。弱い陣痛が始まる。


当日の支度を済ませ、主人の帰宅を待つ。
10分間隔になり、2:40助産院へTEL。主人帰宅。
3歳になる娘を起こす。


「病院へ行くよ!赤ちゃん生まれるよ!」

娘はなぜか「いや~~~!」と号泣。


かなり大暴れ。アレほど楽しみにしていた立会い。
いざとなったらダメなのか?
これは立会いが無理なのか?と真剣に主人と心配した。

よくよく聞いてみると〔自分が病気で病院に連れて行かれる。〕と寝ぼけてる事が判明(笑)

娘のおかげで緊張の糸がほぐれ、深夜にもかかわらず、主人と大笑い。


はっ!助産院へ着くに腹ごしらえ!とコンビニでおにぎりとお茶を買う。
思わず1個ほおばる。

娘が生まれた初産の時は、13時間近く水分以外摂れずにへばっていた事を教訓にした。食べれるときに食べとかないかん!


3:20、助産院へ着き、部屋で荷物を整理しつつ、陣痛に耐えた。
前回は陣痛がも3個も4個も続いたのに、今回は1回ずつで切れて、呼吸を整え、家族や助産師さんと会話が出来る。

陣痛記録も取れた。笑顔も出る。陣痛の合間には笑える。
出産って同じなことは無いんだな。

ビデオ撮影は、友人Iちゃんに頼んであった。
夜中の呼び出しにも関わらず、快く助産院に来てくれて、しかも私たちが助産院へ着くより先に到着してくれていた。

めっちゃ頼もしい。その上、私の陣痛を和らげるためにマッサージも。
【戦力外の主人】と娘の2人が寝てしまった。

私は着実に間隔が短くなっていて、寝る暇もない。
Iちゃんがさすってくれている。大感謝。

主人の緊張の無さにだんだん腹が立って来た朝7時過ぎ。

いよいよ5分間隔をきった。主人と娘も起こしぬるま湯のプールに入る準備。
上半身は水着を着た。ビデオ撮影をするのに少しでもすっきりするように。
髪の毛も水に浸からないようにアップにした。

プールに入った瞬間、とてもリラックスできて、体がゆるんだ。
ほ~~。束の間の休息。

すると、ぐぐぐっと陣痛が来た。
強い強い。緩んだせいか反動?それでも間隔の間は、まだ話せる。

プールの中には、院長がひざくらいまで入って私のおしりを押してくれている。
私は、ほぼ四つん這いの状態。主人と娘とIちゃんはプール脇に並んでいる。

娘も一緒に息を吐いて、私の腕や頭を撫でて「がんばれ!がんばれ!」
私が大声を出しても、怖がりもせず、固唾を呑んで見守ってくれている。

しゃーーーーーーーっ。股の間から何かが出る感じ。
院長が「今、破水したねぇ。」「お?おおお」

【これが破水かぁ。】

足と足の間を勢いよく羊水が出るのを感じながら、妙に関心。
「きれいな羊水だね」「血の1滴も出てないよ」と院長。
「確かに綺麗だ」と主人。

その途端、またもや、ぐぐぐぐぐぐっ。
数回いきみ逃しをして「もういきんでいいの??」と必死に聞くと、「え!もういいよ。いきんじゃって」と「まだいきんでなかったの?」みたいな返事が返ってきた。

【おいおい。なら早く言ってよぉ。】

と思いながらも、来てる来てるぐぐぐぐぐぐっ~~!「痛ーーーーい!」とプールに沿ってある握る棒を思いっきり握り叫んだ。

腕にプルプル力を入れつつも、お腹はリラックス(のつもり)。

「頭出てきたよ、触る?」の声の時もどんどん強いのが来る。
大きな声で「むーりーぃ」と叫びつつ、はっと我に返った。
妙に冷静に。心の声がした。

【出てくるその時は、息を静かに。体の力を抜いて、は~~~、と力を抜く。】

は~~~~~っ。

四つん這いの両足をぐっと広げた、その瞬間

【出るっ!!!!!】

左手をばっと自分の股間に入れ、出てきていた?出きっていた?赤ちゃんを支えた。と同時に自分の体をひざ立ちで支え、両手で赤ちゃんを胸の前に抱えた。
ほんの一瞬の出来事だった。


≪9/15朝7:47 息子の誕生!!≫


いや~早かった。10分間隔になって4時間で誕生。お印が来てから6時間。

あまりの早さに主人も感動の涙すらなく、
私も涙より産んだ途端、主人に向かって「カメラカメラ」って指示を飛ばすほど。(笑)

陣痛中は、もうこんな思いするのは二度とイヤだ!本気でもういい!帝王切開にしてくれ!とか思うのに、出産直後からもう一回産みたい!と変化するのはなぜなんだろうか。

究極のMか?

2012.04.08 投稿者:す

私は3児の母です。

死産経験もありましたが3人の子供達はケンカをしたり仲良く遊んだり毎日元気いっぱいに育っています。
三人それぞれ異なるお産体験どれも思い出に残る経験になりました。


一番近い出産は2010年7月23日に産まれた末っ子の出産ですね。

上の子2人は保育園があるので私は里帰り出産せずに自宅近くの産婦人科で出産しました。

出産当日の早朝、いつもと違う腹痛に襲われ、これが陣痛なら三人目なので経過は早いと予想していたので、すぐに病院に電話を入れて、旦那がちょうどいたので一緒に病院に向かいました。

上の子達は実家の母が助っ人にきていたので、自宅で見てもらい、子供達はいつも通り保育園に行きました。

私はすぐに陣痛室で待機して内診を受けたら、子宮口は6㌢開いており、経産婦なので陣痛の大きい波が来たらすぐに生まれると言われ、小さな波が何度かあるだけで旦那もまだだと思って部屋を離れた間に、今までにない大きな波が来ていきみたくなり、自分でナースコールを呼んだらもう頭が出てきて、助産師さんに股を抑えられ車椅子で運ばれて分娩台に行き、すぐに生まれました。

旦那ももう生まれたのかとビックリしてましたよ。
体重の三人の中で一番大きい3535gもあったので、ほんとそんなにあったのかと驚きましたね。


二人目の時は里帰り出産で、その日は朝から陣痛ぽかったので病院に行き、両親と子供も一緒にいたんですが、そんなに早く生まれないだろうと思って食事をしに一度自宅に帰った間に産まれてしまいました。

その時は和室で出産したんですが、助産師さんと二人で集中しながら出産できたので、ほんとに良いお産が出来て大満足でした。
子供が近くにいたら気が散るので、私は出産は一人でするのが理想ですね。


一人目の時は初産だったので旦那が陣痛室から付き添ってくれて、ずっと体をさすってくれたりしたのでそれだけで十分満足してますね。

三人のうち一人だけでも一緒に子供の誕生を迎えられたので、ほんと感謝してますよ。
二人目からはお産の流れもわかるし、私一人の方が気楽でいれますしね。


それで末っ子の出産後その子とは出産当日しか会えず、再会したのも私が先に退院したので末っ子も色々と検査もあって次の日に受け取りにいきました。

その頃、上の子達が通う保育園でりんご病が流行っていて、一番上の子がりんご病になったのでその近親者は感染率がたかいと言う事で、私は病院では隔離病棟に移されました。

赤ちゃんも退院するまで私と接触するなら、ずっと母子同室が条件で一切、病院側では赤ちゃんは預かってもらえない事になったので、入院中ずっと病院側に預けるか母子同室か母と相談した末に母が「預かってもらった方が一人の時間もなかなか持てないし、自分もゆっくりできるから良いんじゃないの?」って言ってくれたのでそうしました。

赤ちゃんとは会えなくてちょっとさびしかったですけど、赤ちゃんの事より上の子達の事が頭から離れなかったですね。

私のそんなこんなの出産話です。
無事に健康に生まれてきてくれた事に感謝の気持ちでいっぱいです。
ほんと末っ子って可愛くて仕方がない存在ですよ。

2012.03.21 投稿者:れーな

以前、妊娠の体験談に投稿させていただきました。

2012.1/31 20:28 3320g 51.0cm の次女を出産しましたので、ご報告させていただきます。

長女の時は、先天性重複障害の疑いがあり、実母も分娩室から出されてしまいました。

そのため、今回はおそらく最後の出産になる、自分の思う通りの出産がしたい!
そう考え、


1、長女が泊まれる
2、家族、友人も分娩室に入ってもらう
3、長女にへその緒を切ってもらう


これが私のバースプランでした。

切迫早産と言われ、長女の保育園の送り迎え以外はしない毎日が続き、きがつくと逆に臨月を過ぎました。

1/31もいつも通りに長女を保育園に送り、買い物をして、お昼ご飯を食べ、寒かったので迎えを車で行いました。
数日前から前駆陣痛があり、迎えの車の中で、


いつもより少し痛いから、帰ったら病院に電話してみようかな。


なんて長女に話し、17時すぎに病院に電話したところ、一度診察しましょうか。と言われ、入院セットを持ち、長女を連れ受診。

早くても今日の夜中、明日には産まれると思う。どうする?入院します?


じゃあ、入院します。


今日の夜中かぁ。あと何時間くらいで会えるかなぁ。
なんてドキドキしていたのに、普通に会話できるし、きて欲しい人にメールをし、かなり余裕でした。


18時半に破水、ここから一気に分娩が進み、
19:55に歩いて分娩室へ。

長女、実母、助産師の友人が到着し、三人が分娩室に入ってくれました。
フリースタイルだったので、右を下にした横向き、耳の所に手を当てた、よく、おじさんのテレビを見ている格好で出産に望み、20:28に出産しました。


周りが驚くほど、超安産!


長女にへその緒を切って貰い、誰よりも先に抱っこさせました。
オムツ交換はお手の物!抱っこも上手です。

いま。

四月に小学生になる長女と生後三週間にして、4キロの大台に乗ってしまった次女と三人、毎日幸せに暮らしています。

2012.02.20 投稿者:未婚の母

今は亡き次男瞬(享年5ヶ月)の妊娠~出産の時の話です。

20週のときに全前置胎盤と診断され、入院。
瞬とママは、長い妊娠期間をほとんど病院で過ごしました。

最初は、ウテメリンを服用し、トイレと洗面だけは自由という低めの安静度で・・・
ママは退屈してお菓子を食べたり、漫画を読んだり、
暇だ~~と友達やパパにメールを送ったり、のんきに過ごしてました。

医師の心配とはうらはらに、瞬くんはお腹で頑張ってくれて・・・
一度も出血したりせず、大きくなっていってくれました
周りには、切迫のママさんたちが点滴棒を引きずって歩いているのに、
元気な私が入院してるのが申し訳なかったです。
でも、あとで聞いたのですが・・・
医師目線で、私はかなり危険な妊婦だったらしいです。
いつ出血してもおかしくなったらしくて、担当医師は休みの日も
緊急用の携帯を気にしていてくれたそうです。
緊急時の手術も準備されていたそうです・・・

そんな妊婦が、医師にわがままを言い、入院中、何回か外泊もさせてもらいました。
だから、娘(長女)の卒園式も入学式も参加出来ました。
医師には何回も心配かけたし、何回も怒られもしましたが・・・

そして、4月に入り、さすがにお腹も大きくなってきて・・・
状況が変わってきました・・・。

お腹もやたら張るし、痛むし・・・で、
MR検査を受けました。
胎盤が子宮口の真上にびったりついていて、
しかも、胎盤が子宮筋層表面に癒着した楔入胎盤(せつにゅうたいばん)、
筋層深くに侵入した陥入胎盤(かんにゅうたいばん)、
筋層を貫通して漿膜層に到達した穿通胎盤(せんつうたいばん)
のどれかだろうと言われました。
癒着胎盤の発生頻度は約0.01%(出産1万件に1件)で稀な疾患だそうです
癒着した胎盤を剥離する際に大出血を来たし、それに続発する出血性ショックや播種性血管内凝固症候群により、母体死亡の原因となり、母体死亡全体に占める癒着胎盤の割合は約3%(母体死亡33件に1件)と少なくなく、産科的に重要な疾患であるそうです・・・

またまた主人が呼ばれて、こんな説明を受け手術の成功率を聞き奈落の底へ・・・
その後は、ウテメリンの点滴をめいっぱい使い、尿管も入れて・・・
完全に絶対安静の生活になりました。
マグセントという強い薬も使い
なんとか胎盤剥離を避けるための処置を受けました。
副作用の強い薬で、私は一日中頭痛と吐き気と戦っていました。
でも、お腹の赤ちゃんだって苦しいんだ・・・と思うと頑張れました。
何とか、2人で乗り越えよう!!
絶対にこの子の産声と可愛い顔を見るんだ!!と思って頑張りました。
痛み止めのモルヒネみたいな薬も使いました。
そんな強い薬にも負けないで、瞬はがんばって育ってくれました。

35週4日(5月12日)
ママのお腹は限界で、朝の診察後、緊急手術になりました。

手術室に入り、すぐに瞬くん誕生
とってもかわいい声で泣きました

瞬の顔を見て、大粒の涙がこぼれました。嬉しかった・・・

医師が私に、『これからが本番だよ!』と告げ、
胎盤摘出の手術が始まりました。

絶対に死ぬもんか!!


瞬誕生から、3時間以上の手術だったようです。
でも、わたし、生きています。
先生、ありがとう・・・
神様、ありがとう・・・あの時は本当に心から感謝しました。

胎盤は、穿通胎盤(せんつうたいばん)でした。
子宮を全摘出するしか、助かる道はなかったそうです。

瞬も私も助かったのだから、子宮なんてもういらないや!
あの時はそう、思いました。
私には、可愛い子どもが4人もいるし。


でも、今は子宮が無いのがすごく辛いです
もう、赤ちゃんを産めません・・・
瞬がまたママの赤ちゃんになりたい・・・と思ってくれても、
もう私は瞬を産んであげることが出来ません・・・

だから、今、瞬を失い余計に辛いです・・・

私はもう二度と小さな赤ちゃんを抱くことは出来ません・・・

瞬くんがママの最後の赤ちゃんです・・・


長くなってしまいました・・・
とにかく瞬は私たち夫婦にとって、いろんな意味で、特別な赤ちゃんです。

生まれる前も、生まれてからも・・・

2012.02.19 投稿者:瞬ママ

長女のMちゃんのお話しは、今から6年前です・・・

お兄ちゃんが2歳のときに、妊娠発覚!

今度は、なんとなく最初から女の子のような気がしていました
順調に妊娠生活が始まりましたが、17週で少しお腹が張るようになりウテメリンを服用。

今回の妊娠は太らないように!と気をつけていました。
しかし・・
今回は、つわりがひどかった
とにかくいろんな匂いがダメで、トイレにしょっちゅう駆け込んでいました
家のパパは、調理人なんですが・・・
もうパパから匂う食べ物の匂いがホントにキツくて
パパは帰宅すると玄関からそのままお風呂へ・・・
という決まりが出来ていました。(ごめんね、パパ)

前期~中期は、つわり以外の問題もなく
ママは、1人目で出来なかった手作りグッズに挑戦!
肌着やスタイを作り、のんびり穏やかな気持ちで第2子の誕生を楽しみにしていました。

そして、34週の頃から・・
お腹に違和感を感じ、何回か病院を受診。
特別いつも何もなくて、いつもそのまま帰宅できていたのですが・・・

36週に入って、どんどん胎動が少なくなってきてる気がしてきました。
でも、病院に救急でかかっても、検診でも、モニター上は異常なしといわれ・・・
お産が近くなると胎動は減るのよ。なんて言われて・・・不安のまま帰宅。

そして、2月11日。この日は祝日だし、前日にも病院行ってるけど・・・

母は、何か違う!!!!と感じ受診。
正直、またキタの・・・みたいな顔されたけど

そしたら、なんと赤ちゃんの心拍がかなり弱ってました・・・
そこからは、超バタバタの先生や看護婦さんたち・・・

心拍低下の診断から2時間ほどで、緊急手術の準備が進められていました

帝王切開により、急いで取り出したのですが・・・
赤ちゃんは仮死状態。泣きもしないし、血の気のない真っ白な赤ちゃんでした・・・。
そして県立子ども病院のドクターカーに乗せられて、赤ちゃんはすぐに連れて行かれてしまいました。

ここからはパパから聞いた話になりますが、
こども病院に付き添ったパパは医師に、
『お父さん、覚悟していてください・・・
この状況ではなんともいえません・・・最善は尽くしますが。』
と告げられ、待機室に何時間も放置されたそうです。

娘は、交換輸血という、血液を総入れ替えするという処置を受けたそうです。
この時は本当に生きた心地がしなかったそうです。

夜になり、一旦ママの病院に戻る事になった時パパは私になんて話せばいいか・・
悩み、そして1人、声を出して大泣きしたそうです。
でも、パパは手術で疲れている私にその時は話さないと決めたそうです。
私は(なにかあれば連絡がくる・・・)とだけ教えられました。

心配だったけど、でもなぜか私は、『大丈夫!』とその時思ったんです。

そして、娘は峠を越えてくれて・・・
産後3日目に私は車椅子で外出し、娘に会いに行きました。

娘はまだ小さな体にたくさんのチューブをつけられて・・・
要観察のベットに寝かされていました
看護婦さんがおててをさわってあげてください・・。
と言ってくれて、触った途端に涙が溢れました。

ごめんね・・・こんな苦しい思いをさせてしまって
何回も娘に謝りました。

でも、娘はみるみる回復してくれて、入院から1ヶ月で無事に退院しました。

今では、あの時のことが嘘のようにめちゃくちゃ元気です
色々と心配された後遺症もまったく出ませんでした。
結局、『母子間輸血症候群』という聞いたこともない病気だったそうです。

3歳の頃に行った定期検診の時に当時の看護婦さんに、
『今だから言うけど、運ばれてきた時この子は助からないかも・・って思ったんです・・。
こんなに大きくなって・・・本当に良かったです。』と言われました。

奇跡なのかな・・・
この子の生命力はすごいな・・・
この子はまだ生きたい!って小さいながらに頑張ったんだな・・・
と、思うと、本当に大切に育てていかなきゃな!と思います。
娘に感謝です

2012.02.19 投稿者:瞬ママ

うちの息子(第一子)がうまれたのは2010年の大晦日の朝でした。

予定日より3週間早い、37週0日。ちょうど正期産に入った日の誕生です。

お産の始まりは破水から。
破水したのはまだ36週6日になったばかりの夜中…
明日からパパが年末休みに入る!という夜でした。

夜中、わたしは破水したことで目が覚め、トイレにいってみると…間違いなく破水!!
実は助産師として結婚前まで病院勤務をしていたので、破水であることはよくわかりました。

そのときの率直な感想。(トイレにて)
「こりゃ入院だ…わたしの正月は病院?!」
意外と冷静です(笑)

「破水したー。」
とパパを起こして、あらかじめ準備していた荷物をもってパジャマのまま防寒だけして寒い外に出ました。

わたし「あとは色々とよろしくね~」
パパ「え?またあとで帰ってくるよね??だから電気毛布つけっぱなしだけど~」
わたし「??!!え?もうこのまま入院だよ…破水したら入院じゃん!」
パパ「…!!!」
…びっくりでした。パパにも事前に破水=入院と伝えていたはずですが、年末に破水という突然の出来事にかなり動揺していたみたいです。

そんな出来事に二人で笑いながら片道30分、クルマで病院に向かいました。


入院当日に担当してくれたのは元同僚の先輩助産師さん。自分が勤務していた産婦人科での出産です。

総合病院だけど畳の部屋で出産することができてわたしもそこを希望。入院当日、ほかの希望者がいなかったので、まだお産にはならない状況でしたがその部屋を使わせてもらって陣痛のこない夜を明かしました。パパは付き添いです。


2010年 12月30日

世間は年の瀬。大晦日前日の忙しいとき。
我が家の夫婦二人は病院の分娩室(畳部屋)で朝を迎えました。
「今日もしうまれたら早産になるから今日お産になるようなら分娩台ね。」(これは安全性を考慮したこの病院の方針です)と助産師さんから説明を受けました。

しかし、陣痛がやってくる気配はまったくなし。昼はそれでも陣痛が来ないものかといろいろとアプローチしてみました。陣痛がくるツボ押し、階段を登り降りしながら院内を散歩、アロマオイルをつかって足浴などなど。

その成果なのか夕方からなんとなく痛みがやってきて、日付が変わったところでいよいよ痛みが本格化しました。

結局、陣痛開始から8時間で生まれてきたわけですが初めての陣痛体験は想像を絶する痛みでした。
仕事でたくさんお産に立ち会って取り上げて色んな産婦さんのお手伝いをしてきたけど実はこんなにこんなに痛かったとは!!!!!

騒ぎまくりました。

(伴さんの出産シーンはわたしをみているかのようですごくすごくあの痛みがよくわかります。いや、むしろ、わたしのほうがさらに声も大きく!出せる声は全部出したお産でした(笑))

そして・・・
わたしはパパの手を傷つけました。爪を切っておけばよかった…(苦笑)陣痛がくるたびに力が入ってしまって、わたしの爪でパパの手は出血してしまいました。でも、パパは怒りもせず。

ありがとうパパ。
生まれた声を聞いて、わたしではなく、パパが涙を流していました。

生まれてくる直前には、息子の頭がみえてきたところで、彼の髪の毛を触らせてもらいました。わたしのバースプランのひとつでした。

親よりも一番早く赤ちゃんに触れる助産師。それを私が!!先に!という気持ちからでした。欲張りなわたし(笑)

でも実はそれどころじゃなくて…(笑)痛くて痛くて。陣痛がない合間をみて付き添ってくれた元同僚の後輩助産師さんがわたしの希望をしっかり覚えてくれていて(むしろ、わたしはそのバースプランを忘れかけていた…汗)、 私の手を髪の毛へと誘導してくれました。

「うわぁーここにいるー!!」という嬉しい気持ちになりましたがすぐまた壮絶な陣痛 がやってきて…というかんじでした。


さてさて。
生まれてきてわかったことですが…
臍帯をみてびっくり !

真結節といって、へその緒自体が結びついている箇所がありました。それも二ヵ所。
結び目のキツさによっては赤ちゃんへ酸素や栄養がいかなくなり、場合によっては生まれてくることができない危険もあるおそろしい状態。

「だいぶ小さいときからグルグル動き回っていたのね~」とあとで医師から言われましたがまさにその通りで、検診のたびに胎位(赤ちゃんの背中のむきや格好)は不思議な動きかたをしていました。

そんなエピソードもありますが
臍帯がそんな状態だったのを息子自身が察して、お腹の中の『破水ボタン』を押したのかな?!??…と、わたしたち夫婦はそんなふうに話をしてます。

早く出てきてくれてよかった。結ばれた臍帯の写真(撮らせてもらいました)をみるたびにそう思います。

また、息子は、
パパのいるときに、パパがママを病院に連れていけるときに(できればお休みのときに) 出てきてくれたら嬉しいなぁ~
と何度かお風呂でお話していたのもちゃんと聞いてくれていました。(きっと)

実際、入院したのは夜中だったし、年末休みだったし。立ち会いのほか、おかげで退院まで毎日パパは息子とすごせました。


赤ちゃんの力ってすごいですね、しかもお腹のなかにいるときの力って。結果的にそうだっただけかもしれないけど、我が子からたくさん貴重な経験をさせてもらいました。

生まれてきてくれた命。大事な命です。

命懸け という言葉がありますが、母子ともにお産の場面ではほんとに命をかけています。私自身何事もなく無事に出産を終えることができたし、無事に生まれてくることが当たり前ではない世界での、我が家の問題なかった出来事には感謝の気持ちでいっぱいになります。

今年の大晦日には一歳になるわが息子。
毎年、大晦日には生まれた日の思い出話が繰り返されるでしょう。

2011.12.10 投稿者:ぽん太

私は昨年3人目の長男を出産しました。

上の二人の女の子を出産した際は、特に問題なく腰痛に悩まされた位でしたが、長男の時は色々大変でした。

妊娠5ヶ月まで週二回のパートに行っていました。あともう少しでお休みするという時、勤務中に右半分の激しい頭痛に襲われました。

ちょっと横にならせてもらいましたが治まらず、上司が病院に連れて行ってくれる事になり、立とうとすると左足に力が入らず左麻痺がみられた為、すぐに救急搬送されました。


脳出血でした。


最初の病院では対応できず、妊婦という事もあり大きな医療センターに搬送されよく調べると、脳動脈奇形があり、そこからの出血でした。

医師の話によると、「生まれつきあなたは脳動脈に奇形を持っていて(10万人に1人ある)、それが今回の妊娠きっかけに破れた。手術でその血管を取り除けば爆弾がなくなったも同然で出産もできる。」という事でした。

出血が落ち着いたら手術する事になったのです。(赤ちゃんの週数が手術するのに丁度良い時期で、早くても遅くても駄目だったらしい)

脳の出血後は脳圧が上がり、頭痛が辛かったんですが、痛み止めは一番ゆるい物しか服用できずきつかったです。

そして8時間の手術を無事終えました。

奇形部が脳の表面に近く、後遺症が出にくい箇所だったので、最初にでていた麻痺もなくなっており、後遺症全くなしでした。

妊婦だったのでとても有名な名医の揃った病院で手術を受けれた事、上の子二人の出産の時に出血しなかった事、後遺症がなかった事、赤ちゃんが手術に良い週数だった事を思うと本当にラッキーだったし、長男に感謝です。

主人は最初医師に「出血が止まらなければ二人共助かりません。覚悟してください」とかも言われたみたいで辛い思いをした様です。

その時の一ヶ月の入院の間娘達は主人と私の両親と姉がよく面倒みてくれました。
この事でいつも喧嘩ばかりだった私達夫婦の絆もとーーーても深くなった気がします。


そして出産予定の3週間前から念の為再び入院して、予定日に赤ちゃんが大きくなりすぎていたので帝王切開で出産しました。

傷は痛かったけど、産後は痛み止めが使えるので、脳の術後に比べたら楽なもんでした。

息子は4182gの特大ベビーで、手術の影響もなく、今は元気につたえ歩きしてます。

「うまれる」を本で読み、色々な出産や家族のあり方があるんだなーと感銘を受けました。

映画も見にいきたいです。


息子は雲の上から「よっしゃ!あの僕のオカンに脳の病気教えたろ!」ってお腹に来てくれたように思えて仕方ありません。

それだけに息子が愛しくて仕方ありません。
本当にうちにきてくれてありがとう。

今生きて元気に子育てする毎日に感謝します。
この出産は人生観をかえる良いきっかけになりました。

人生なにが起こるかわからないので、毎日一生懸命歩んでいきたいです。

2011.08.21 投稿者:ぼーぼー

私は46歳の主婦です。
この映画はまだ観られないのですが、誰かに伝えたかったので投稿します。

私自身がこの6月に3人目の男の子を出産しました。

そして、現在は子育て再出発中です。
主人は55歳ですが24年前に結婚して、長女は20歳、長男が13歳、そして今回奇跡的に妊娠したのです。

子供を授からない方にすればうらやましい限りと言われますし、周りの方を心配させながらも五体満足で自然に産めたことを、奇跡だとも言われています。

その子はもうじき2カ月になりますが、検診でも特別な事も無くて順調に育っています。

今その子の寝顔を見つめながら書いていますが、とてもいとおしいです。

けれどその半面、育てて行けるのかと夫婦で不安な日々なのです。

授かった命は大切にしようと話しあって産む決意をした私でしたが、高齢出産だった為、産む場所も離れた総合病院を紹介されて、6年のパートの仕事を辞めなければ行けない状態になりました。

この不景気に主人だけの収入では、まだ2カ月なのに生活が行きずまっているのです。

このいっさ(ニックネーム)を抱えて私自身が仕事に復帰できるのかどうか?誰でもできる一般事務、特別な資格もない私自身なのです。

私自身が蒔いた種をどうやって育てていけばいいのかと、悩みきれない日々を送っているのです。

私の様な方はいないと察していますが、誰かに伝えたくて、何かを言っていただきたくて投稿しました。 

2011.07.25 投稿者:いっさの母

2010年5月21日予定日より2カ月早く次女を出産しました。

7月18日予定日でしたが、4月中旬26週の妊婦健診で全前置胎盤であることが分かりしかも癒着胎盤の疑いもあるといわれ、大学病院へ救急搬送されそのままベット上安静生活が始まりました。

少量の出血を続けながらも31週まで持ったのですが、31週5日で大出血して緊急帝王切開となりました。

1554グラムの小さな小さな次女出産後、無事胎盤もはがれたものの、血圧が上がらずでもお腹の中に出血が見られなかったためお腹を閉じ手術を終えようと、お腹にかけていたシートをはがすと、腰の下に敷いてあった防水シートが血の海だったそうです。
あわてて再手術となり、子宮全摘出!

13リットルの出血。
10リトルの輸血でしたが、何とか一命を取り留め今元気に過ごしています。

24歳で子宮を失い、今まで味わったことのないつらい思いをしましたが、保育器の中で小さな体いっぱいに呼吸し、頑張っている娘の姿を見ていると子宮を失うだけですみ、命を落とさずに娘に触れることができて本当に良かったと心から思えました。

お産は命がけと、正直他人事のように聞いていた部分がありましたが、身をもって思い知らされたお産となりました。

2011.01.22 投稿者:こるこる

あと3ヶ月で長男の6回目の誕生日です。

30週で破水。
破水してから運ばれた大きな病院でお腹の中の子は


水頭症の疑いがある


と言われ、破水から出産までの6日間、泣きながら過ごしました。
初めて聞く病名、この子は幸せになれるのか、いっそのこと、
お腹の中の子と死のうかと思ったこともありました。


生まれてからも水頭症のほかに心疾患、鎖肛(おしりの穴がない)が見つかり、
生まれた翌日から手術が続きました。

生まれてから4ヵ月後にやっと退院したものの、家にいたのはたった1ヶ月。
心不全を起こし、救急車で病院に戻りました。

その後入退院を繰り返しながら、ゆっくりゆっくり成長していった長男は、
1歳9ヶ月でやっと心臓の手術ができるくらいまで成長しました。

やっと手術ができる、命の危険を感じながらの生活が終わる・・・
そう思っての手術の決断だったのに・・・。


生きるための手術のはずでした。

なのにその手術から2週間後、1歳11ヶ月で旅立ってしまいました。


病院と家の往復ばかりの生活でしたが、
私にとっては長男とのかけがえのない、幸せな生活でした。

生きていたらもうすぐ6歳。同じくらいの年の子を見ると
今でもやっぱり辛くて、涙が出そうになります。

今、2歳の次男と1歳の三男の育児に追われている毎日ですが、いつか天国で長男に会ったとき、「パパとママのところに生まれてきて幸せだった?」って聞いてみたいです。

2010.11.22 投稿者:パンダ2号

私は3人娘の母です。

次女を出産後3人目が欲しいと思って頑張っていましたが、9年間妊娠する事が出来なくて諦めていたところ妊娠しました。

出産まで順調で何の問題もなく産まれてきた娘は、生後一カ月過ぎに自宅で心肺停止。
泣き叫びながら人工呼吸をし救急車で運ばれました。

娘の診断結果は、SIDS突然死症候群でした。

脳の大部分に障害を持ってしまった娘に戸惑いと不安しかなかった入院の時。初めて抱っこが許された時のあの温かな娘の体温に「がんばってくれてありがとう。お家に一緒に帰ろうね」と思えました。

超がつく障害児になってしまった娘と向き合っていると、上の娘たちが何事もなく大きくなってくれた事、三女が頑張って生きたい生きたい!と思い生きてくれている事とても幸せです。

命って当たり前で当たり前にあるものじゃない。
命は尊く儚くだからこそ大事にしたいと思っています。

今4人目を妊娠中です。新しい命と、今ある命愛おしくてなりません。

2010.11.18 投稿者:ちー

2005年10月5日 16時36分
次男を出産しました。

23週3日 体重わずか558gでした。

悪阻がひどく8週から16週まで入院。
おしっこも出ず、水さえも吐き本当に辛い時間でした。

退院後初めての妊婦検診。
内診後、胎胞(赤ちゃんをお包んでいる膜)が見えていると言われ
市民病院から大学病院へ救急車で緊急搬送。

それから食事やトイレに起きる事も許されず
個室で全てベッドで寝転んでの生活でした。

張り止めの点滴の副作用がひどく
手のしびれや頭痛、嘔吐もありました。

本来なら子宮を縛る手術をするらしいけど
私の子宮膜が薄すぎて縛る事さえできす
毎日洗浄と消毒の日が続きました。

10月1日、朝方突然の破水で目が覚めました。
もうお腹の子供はダメなんだろう…と一度は諦めかけましたが
今の医学は発達していて、羊水の代わりの物をおなかに注入すれば
出産まで持つ事も出来ると言われ
10月4日に、お腹に太い注射針を刺し
これで何とか持てばいいと安心したのもつかの間。。。

翌朝、子宮に違和感を感じ内診をお願いした所
足が出てきていると言われ、7時間かけて自然分娩で
次男を出産しました。

泣く事もなく、そのままクベースに入れられNICUへ。

ウンチが出ないと生後1週間で手術。
生後1ヶ月で腸が破裂し2回目の手術。
その時の体重は300g台でした。

退院できたのは生後10ヶ月。
体重3600g。
慢性肺疾患のため在宅酸素の条件でした。

現在5歳。身長99センチ 体重12キロ。
発達も発育も遅れています。
毎週、言語・作業・理学のリハビリに通いながら
普通保育所に週2回~3回
楽しく元気に通っています。

先の見えない将来に不安で
今でも夜な夜な涙流す事もあります。

息子を産んだあの日には考えられなかった事が
たくさん出来るようになりました。

生きてるだけで100点満点!!

私はそう思っています。

2010.11.05 投稿者:ひめ

結婚して4年半、赤ちゃんをなかなか授かることができず不妊治療に通っていました。

周りからは「赤ちゃんまだなの?」「何で作らないの?」などいろいろと言われました。
時には「子供の作り方知らないとだろう~」とまで言われたりもしました。

先の見えない治療に精神的にもつらくなりしばらく治療をお休みしようと夫と話し合い
治療を休んで2か月目のある日、胸の痛みで婦人科を受診
なんと、なんと妊娠による胸の痛みだったのです。

初期の初期なのでまだエコーは1週間後に見ましょうと言われ
1週間後にエコーで確認すると小さな胎のうが見えました。
初めての妊娠で安定期に入るまではとても不安でした。

そんな私の心配なんて吹き飛ばすくらい妊娠経過は順調で
予定日も10日も過ぎてやっと陣痛に!
しかし、子宮口が開かず病院についてすぐバルーンを入れました。
その日の夕方、破水…それでも子宮口が開かず…次の日には促進剤を点滴。
丸2日陣痛に耐え、子宮口は4センチから開かず、最初の頃は力が入って出ていた羊水もでなくなり
最終的には緊急帝王切開に…みんなからフルコース出産と言われました…

そんな中、元気に泣いて3400グラムの娘が誕生。

無事に産まれてきた娘を見て涙が止まりませんでした。
自分はうまれてすぐの赤ちゃんになんて声をかけるのだろうと思っていたのですが
産まれてすぐ見せてもらったわが子になんとも普通に「可愛い!」と言っていました。

そんな娘も今月5カ月になります。
今でも毎日、夫とともに可愛いね、可愛いね~とカワイイの連発です(笑)

陣痛開始からずっと私に付き添ってくれた夫にも元気に産まれてくれた娘に感謝でいっぱいです。

これから家族3人で思い出をたくさん作っていこうと思います。

2010.11.01 投稿者:りーちゃんママ

私の出産は、子供が生まれるまで、とても波乱万丈でした。
仕事が忙しく、妊娠に気付いたのは「妊娠5ヶ月」の時。
嬉しさを感じる間も無く、酷い貧血で入院。
退院したと思ったら「血小板減少」と貧血で再び入院。
退院したと思ったら飲酒運転の車にひき逃げされ入院。
退院したと思ったら妊娠中毒で入院。

もうね、私は五体満足な子供が産めないんじゃないか・・・って落ち込んでました。
いくら何でも、こんなに不運続きな妊婦、いますかね?
入院生活のまま、予定日を過ぎたために、薬での出産を迎えたんです。
陣痛促進剤が身体に合わず、陣痛の度に嘔吐しまくり。
(こんなに辛い思いして、子供を出産する妊婦っているのかなぁ?もう、どうでもいいや)
と出産に対して投げやり状態。

陣痛は酷いし、吐きまくりだし、赤ちゃんが降りて来ない!!
看護師が私のお腹の上に乗り、お腹の上から赤ちゃんを拳でグリグリと下に押し出しましたが、その拳の痛さったら!!


赤ちゃんなんてどうでもいいや・・・そう思った。


陸上部で鍛えた私が、「貧血」だの「血小板減少」だの「腎炎」だの、健康が自慢だった私が病気になるなんて、この子のせいだと思った。

医者にも看護師にも「体力の無い妊婦ね。妊娠に適応できないんなら妊娠しなきゃいいのに。大体、10代で出産しようなんてするからよ」なんて心無い事まで言われて、出産に挑んでいる私がバカに思えてならなく、赤ちゃんを大切に思えるか分からず、そんな事を考えながら女の子出産。

赤ちゃんは何故か泣かず、医師も看護師も慌てていたが、私にはどうでも良くなってた。
それから暫くして、泣き声が聞こえ、看護師さんが「女の子よ。7月7日、七夕生まれね」と私に赤ちゃんを手渡した。

その時に凄く愛しくなりました。文字に表す事が出来ないんですが、本当に愛しい気持ちでいっぱいだった。

赤ちゃんの顔を見たら、今ままで私が思った事を悔やみました。
と同時、私はこの子を守ろう・・・と“初めて母親”になったんです。

どんな困難(何度もの入退院や事故)にも打ち勝ち、私についてきてくれたこの子を守りたいと感じました。

ちなみに今日、7月7日は私の誕生日でもあります。
出産は痛いけど、その分、感動が大きいですね。
無事(?)に出産出来た事、嬉しかったです。

今、妊娠中にトラブルがあり、入院しているお母さんに伝えたい。
「不安に思わないで。きっと大丈夫。無事に出産できるよ。健康な子が必ず生まれるよ」って。

2010.10.11 投稿者:くみ

私のお母ちゃんが、私を産んで女の子だと聞いた第一声が、「こんな痛い思いさせるの可愛そう。」
だったそう。
お母ちゃん!!私を痛みに耐えながらも頑張って産んでくれてありがとう!!
お父ちゃん!!愛情たっぷり注いで育ててくれて本当にありがとう!!

2010年8月3日午前2時2分
長男 利輝 
3654g 50㎝
初産にしては安産の9時間8分
普通分娩で誕生しました。

主人、お母ちゃん、妹に囲まれ、笑いの絶えない楽しいお産でした。

お母ちゃん!!私は、利輝君に巡り合えて、無事に出産できて、幸せな気持ちで感謝の思いで溢れています。
利輝君!!主人と私に産まれて来てくれて、お腹の中でお利口さんに頑張ってくれて本当にありがとう!!


未来の利輝君へ

利輝くん!これを読んでる今、ちゃんと笑えてる!?心配事は何!?辛いことは解決しそうにない!?
たっくさん笑って、心配事も、辛いことも、吹き飛ばしてね!!
それでも、もやもやするなら、いらいらするなら、お父ちゃんと、お母ちゃんがいつでもそばで、話を聞くよ。

利輝君のお嫁さんが、お産を迎えることができたなら、その時は、利輝君がしっかりと痛い思いをリラックスさせてあげて下さいね。


あなたのお母ちゃんより

        


2010.08.23 投稿者:利輝くんのお母ちゃん

2010年秋。
この映画が公開される頃、私は3児の母になります。

3人の子どもたち。それぞれに妊娠・出産にはストーリーがありました。


2005年に生まれた長女が生まれた日は、記録的な台風の真っ只中でした。
妊娠経過は順調。変わったことといえば、前駆陣痛が長かったくらい。

出産予定日3日後、朝食の準備中に突然破水し、緊急入院。
ところが、微弱陣痛は続くものの子宮口は堅く閉じたまま。
仕方なく、休日だった主人が特別に医師に外出許可を頂き、夫婦二人で、病院の近くの公園まで散歩に出かけました。

途中、市役所で選挙の期日前投票をしてきたのですが、大きなお腹を見てスタッフの人たちに、「いつ出産ですか?」と聞かれ、「実は、これから出産なんです(笑)なかなか生まれてこなくって、病院から歩いて来ちゃいました。」と主人とともに話すと、投票場となっている会議室は大爆笑に包まれてしまいました。

投票を済ませ、商店街を痛みとともに歩いて病院へ。これで出産と思ったのですが・・・結局その日は生まれず。その後、陣痛促進剤とバルーンで子宮口を開き、破水から60時間以上掛けて(本格的な陣痛からは13時間)ようやく生まれてくれました。

台風が上陸し、主人の仕事が多忙になり、入院中、職場から近い私の病室から通勤していました。
そして退院して数日後、今度は、実家に病院から突然の電話。


「先日の血液検査の結果、再検査になったので、すぐに精密検査を県立病院で受けてください」


急遽、紹介状を持って、地元で一番大きな病院へ行って、血液検査を受けたところ、数千人に一人の病気を宣告されました。


「先天性甲状腺機能低下症」


原因がわからないまま、専門医の診察・小さなわが子を抱いての通院生活が始まりました。インターネットの情報だと、一昔前までは、発達障碍・低身長などがでる、治らない病気だったということを知り、自分の娘の将来を悲観したころもありました。

・・・ところが、幸い長女は病気の発見が早かったこともあり、その後、薬を飲む以外はまったく正常な子どもたちと同じように成長し、5歳になった今では、幼稚園に通い、病気のことを忘れそうになるくらい明るく元気いっぱい過ごしています。


2008年に生まれた長男は、命のバトンを受け取った日に生まれた、奇跡の子です。
1998年春。夢を追いかけ海外留学。しかし、その途中に突然交通事故に遭い、骨盤と手足など複数の骨を折る大怪我をしてしまいました。

一時は生死をさまよっていた私。

夢の中で、神様が、

「5年後に愛する人と出会い、10年以内にかわいいわが子を抱ける、その日まで生き抜きなさい。」

とつぶやいたような気がして、三途の川の川べりで何とか命をつなぎとめました。
何とか留学を終了し、帰国。すぐに入院生活が始まったのですが、無理がたたり、当時の主治医に、「よくて、車椅子生活、下半身不随も覚悟しておいてください。」とまで言われてていて、3度もの大手術、1ヶ月間の寝たきり生活を余儀なくされました。

普通分娩の出産なんて、絶対に不可能だと誰もが思っていました。
その言葉通り、事故から5年後となる2003年に、偶然同じ職場に勤務していた今の主人と出会い、翌年結婚。

息子が生まれたのは、事故から10年後の2008年、しかも大手術を受けたまさにその日でした。娘も息子も、あの事故で、ずたずたになった、その骨盤から、普通分娩で生まれてきました。

予定日の夜中に、急に陣痛が始まり、翌朝、病院へ。早朝におしるしが来て、お産の部屋で一日過ごしました。
午前中、陣痛は5分間隔。

まだ助産師さんと世間話をする余裕があったのですが、お昼ごはんを食べたあたりから陣痛は2分間隔へ。
子宮口が全開になり、長い長い痛みが続きました。そのとき、へその緒が何重にも巻いていたのですが、ゆっくりゆっくり出てきてくれました。

夕方、長男を出産。

主人にとっては待望の男の子でした。
・・・現在2歳。わんぱくざかりの、とっても元気な、そしてやさしいおにいちゃんになろうとしています。


そして、今私は妊娠35週。
来月、3人目となる次女を出産予定です。

長男の育児がある程度落ち着いた昨年の夏。長女の幼稚園入園と長男の保育園入園をきっかけに、ある会社で数年ぶりに再就職した矢先の妊娠発覚。

悪阻がひどく仕事に支障が出てしまうために数ヶ月で退職。今度は切迫流産・切迫早産の危険性があるといわれ、張り止めの薬飲んだり、自宅安静をしながら、ようやくここまで来ました。

現在、二人の子どもたちは、スイカのように大きくなっていくお腹を触りながら、次女の生まれる日を楽しみに待っています。

おなかの中の次女は元気いっぱいに動いています。どんな出産になるのか、とっても楽しみにしながら、残り少ない妊娠生活をすごしています。


子どもを生むまで、赤ちゃんの鳴き声さえうるさいと感じてしまうくらい子どもが嫌いだった私だけど。

大学卒業したころは、30代半ばまでは独身で仕事ばかりしてて、事故の後遺症もあり、子どもを生むのはあきらめなければならないと思っていた私だけど。

今の主人と、3人の子どもたちが、私を母親にしてくれました。

今、地元のおや子劇場の運営委員や、国際交流ボランティアなどの活動を通じて、子どもたちに本物の世界を、芸術を知ってもらう活動を少しずつ始めています。


子育てに追われる、ありふれた毎日だけど、とっても幸せです。

2010.08.20 投稿者:まーぶるまみぃ

4姉妹のママです。38歳の時に自然妊娠し、高血圧の妊娠中毒症で入退院を繰り返していました。ダウン症の子が生まれるかも・・・でも不妊治療を経験している私は、どんな子でも、私のお腹に授かった命は、守ってあげようっと決断し、羊水検査もせず、出産に備えていました。
 9か月に入りパンパンにお腹だけが膨れ、沙優希はなかなか体重が増えず・・・そんな時、胎児の心臓に異常が・・・すぐに子供医療センターへ救急車で転送され、検査をしてみると、18トリソミーという病気でその中でもかなりの重症であることを告げられ、生まれても予後が短いといわれました。それで、母体にリスクの少ない自然分娩をすすめられました。少しでも赤ちゃんに負担をかけたくない・・無事生まれて欲しい・・生まれてきたら泣き声を聞きたい・・迷わずに帝王切開をするように先生にお願いしました。
 しかし、明日帝王切開で生む予定のはずが・・先生に胎児の出産リスクを減らす為だけでは、帝王切開する理由にならず、自然分娩で生むようすすめられました。もし異常が少しでもあらわれたら、すぐにでも帝王切開して出産させて下さいお願いします。それから、長い長い陣痛が何度もやってきました。私も、沙優希も頑張りました。やがて、私は考え方を沙優希に変えさせられました。「ママ私は、大丈夫だよ。自然に生まれても、必ずママに会いにいくよ。」ってお腹の中の我が子が私を説得するかのように、よし自然分娩で出産してみようこの子ならきっと大丈夫って考え、自然分娩で生もうっと決断させてくれました。・・数時間後10センチ全開になっていても頑張っていた私たちは、すぐに分娩室に移動させられ、羊水がパッシャーンっと出て、沙優希も小さかったので、するっと生まれてきました。そして、細い声で泣いて、私に声を聞かせてくれました。(平成21年4月)
 しかし、自力で呼吸できない沙優希は、できる限りの医療行為をしていただき、呼吸を確保して、ひと目だけみて、すぐに、集中処置室へ運ばれて行きました。
 それから、食道閉鎖の為、肺と食道と胃がつながっているので、1,188gの小さな体に手術をすることの説明を受け、手術が始まるまえの5分間だけ、会うことができました。先生方も予後が短い沙優希にきちんと全力で処置をして下さり、無事手術は成功しましたが、あまりにも小さいので食道をつなぐことはできず、胃ろうから食事をとることになりました。
 手術を終えても、1週間から1カ月でしょうっと言われましたが、短い期間でも、我が子が生まれてきた頑張りに、私も応えよう!それから、何度も危機があり、気管切開の手術を行いましたが、先生方の適切な処置のお陰で、現在は、たくさんの医療機器に取り囲まれながら我が家で過しています。(平成21年10月在宅へ)
 一度しかない人生、この子は、短くても意味のある楽しい人生になるよう、4姉妹の育児を日々楽しんで送っています。
 しかし、福祉サービスは地域によって格差があります。許可をもらうまでも時間がかかります。何度も説明を繰り返し行い、理解してもらうにはかなりのパワーが必要です。もっともっと障害者が生きていくうえで公正なサービスが受けられる社会になるように願います。
 この映画を通して、いろんな方に生まれて、生きていくことを、命の重たさを感じてもらいたいな!っと思います。また、幸せな気持ちになってもらいたいです。
 障害者でも、健常者に対して何かできることはきっとあるはず、ひとりひとり社会の役割があって生まれてきたのだから、そう私は考え、できることから行動していこうと思いました。我が家に沙優希が生まれてくれて、本当に感謝です。人生の幅が広がり、いろんなことを気付かされ、家族も成長させられています。これから、どれくらい生きてくれるかわかりませんが、一日一日を楽しく過ごせたらいいな。って思います。 

2010.08.14 投稿者:沙優希ママ

現在三人の母。16歳の長女を出産する時、三日間の陣痛に耐えた末
娘の心拍数が一気に低下し、緊急帝王切開となり娘は死の一歩手前の
仮死状態で産まれました(2760g)

彼女も相当苦しかったのでしょうね…

私の御腹の中で胎便をしており羊水は便で汚れていたそうです
産まれても中々産声をあげず冷や冷やとした事を昨日の様に思い出します。

11歳になる長男の出産、リスク出産と言われながらも自然分娩に拘り、
帝王切開を拒否し続け、10時間半の陣痛、子宮口が8cmより開かない中
リスクがあると言う理由から吸引分娩にて強引に産まされました…(2716g)
きっと三人の中で彼が一番痛い出産だったと思います。

この18日で一歳となる次女の出産は予定日を三日過ぎた所で陣痛促進剤を
二日程飲み、陣痛から四時間と言うスピード出産でした (2744g)

最後に産んだ彼女のお産が三人の中で一番楽で、一番静かなお産でした(笑)

三人を産む間にも流産を6回程経験し、長男が2歳になる頃に子宮外妊娠も経験。

泣いたり笑ったりの我が人生。色々ありながらも三人の子宝に恵まれた事に
感謝する今日この頃です。

お産とは一人一人にドラマがあり、一人一人味わう苦痛や感動も違う。そう思います

次女は団塊の主人をはじめ、二人の子供たちが見守る中で生まれました
出産を通し、生命とは何ぞや?大人の責任とは何ぞや?を二人の子供たちに
分かり難い言葉ではなく、目で見て心で感じる素敵な体験学習として教える事が
出来た様に思います。

女は命を掛けて命を育み、命を掛けて世に新しい命を送り出す。


2010.07.15 投稿者:鈴ママ

私は4年前に30週で長女を死産した経験があります。

緊急オペで帝王切開した為、術後1年間は妊娠できませんでした。
妊娠解禁後も死産の辛さをずっと引きずったままで、
どうしても前に進めず、あるスピリチュアルカウンセラーの元に
飛び込みました。

スピリチュアルカウンセラーを介して長女のメッセージを聞くことができました。
「またあなたの元に返ってくると言っているわよ。性別は違うようだけど」
と。実は、このとき妊娠6週でした。

その後、経過は順調で、長女の時に緊急オペしたので今回も帝王切開。
オペ予定日は5/28。
予定通り、5/28に次男を無事出産。

長女が生まれた(死産)日が5/24で火葬したのが5/28。
次男が生まれたのは長女が生まれてから2年後の5/28。
こんな偶然ってあるでしょうか。
2年の歳月を得て、次男に長女の魂が戻りました。
長女の生まれ変わりだと確信してます。

「うまれる」とは、魂を引き継ぐことでもあるのかなと感じています。

2010.07.07 投稿者:merumo

娘が二人います。二人とも助産院のような病院で畳の部屋で出産しました。
長女は夫が分娩台のような格好になり、産まれてきました。

産まれたとき夫は泣いたそうです。

次女もまた長女と同じように夫を分娩台にして、産まれてきました。
産まれる瞬間まで隣でグーグー寝ていた長女。

「赤ちゃん、産まれるよ!」という助産師さんの声にぱちっと目を開け、すくっと起きあがるとしっかり妹が産まれる瞬間を見届けてくれました。

でてきた瞬間、「ほんとうだ」と一言。長女は産まれた妹が可愛くてしょう
がなかったらしく、興奮していました。(深夜だったのに)でもしばらくして妹の
隣に寄り添うように寝てしまいました。

そのまま家族4人朝まで眠りました。

私にとって2度のお産は、今思い出してもそれはそれは幸せなものでした。
子育てをしていると、イライラしたり、子供が思い通りにならないことに苛立ち
つらくあたってしまったり。母親失格な私です。

子供は奇跡です。

産まれてきてくれたそれだけで感謝しないといけないのに。
いつも怒ってばかりでごめんね。

心から、産まれてきてくれてありがとう。

2010.07.05 投稿者:さちえひ

H19年9月に長女を出産。
仕事が三交代だったため、深夜でも走り回っていて、そんな生活の中、切迫早産で1カ月半寝たきり生活になりました。そして 迎えた出産。深夜3時にいきなり陣痛・破水し、病院へ。日が昇ってから両親に連絡すればいいって思っていたら、朝6時半に生まれてしまい、旦那以外は病院に行ったことさえ知らずに事後報告でみんなを驚かせました。

そんな体験もあり 出産に対して二人目ができた時、長女に「あなたもこうやって生まれてきたんだよ」って伝えたくて 家族に囲まれてゆったり出産したくって 自宅出産を希望しましたが、旦那の反対にあい、産院でのオープンシステムでH21年12月出産しました。
ぎりぎりまで自宅で過ごし、痛みがかわってくるのを体で感じ、いっぱいお腹に話しかけながら、大好きな助産師さんと旦那とお義母さんに見守られ(長女はアデノウイルスで立ち合えず)幸せな時間でした。
回旋しながら 降りてくる次女を感じ、もう会えるんだと思うとうれしくて…。
本当に産み落とすってこんな感じなんだとスルッって出てきて、次女の頭を手でキャッチした時の感覚・重みは愛おしくてしょうがありませんでした。やっとあなたに会えた…。

長女の回復を待って産院を退院し、長女が次女に初めて会った日。おそるおそる手を出し次女を抱く長女を後ろから支え、「あかちゃんだよ」って言うと長女から「ママ、赤ちゃんぼっとんしたの?」って返ってきました。「そうだよ。ママ、赤ちゃんと一緒にがんばってぼっとんしたんだよ。」って伝えると「そっか」って言いながらぎゅってしてました。小さいながらにもいろんなことを感じ、考え、大きくなったなあっと改めて感じる瞬間でした。


毎日育児・家事に追われながらも 子供たちの成長が嬉しくもあり、今、この瞬間は今しかないんだ!って思うとさみしくもあり…。
私をママに選んでくれてありがとう…。生まれてきてくれてありがとう…。一緒に笑ってくれてありがとう…。

もし、三人目がお空からきてくれるなら、いつもと変わらね生活の中で家族みんなに囲まれて自宅でうみたいと思いました。

2010.07.04 投稿者:あきのん

私は2000年7月に初めて子供を出産しました。
結婚して少し経ち、妊娠が分かり主人共々大喜びでした。
でも私は身長が142センチと小さいので”普通に産めるか 五体満足な子が生まれるか”と
とても不安でした。
でも無事2404グラムの元気な女の子を授かりました。
今では3人の子を持つ母ですが 小さい体の私でも 元気な子は産めるんだ!!と世間の皆に教えたいです。

2010.07.03 投稿者:海海秀

-母の勘-


小さな頃から「母の勘」は良く当たりました。
といっても宝くじに当たるとかいった類のものではなくて、
私、娘の未来についてに限ったことです。
母は私の「双子の妊娠」が分かった時、


「あなたが双子を生んだらあなたが死んでしまう。無理だ」


と何度も私に言いました。
「なんで?」と聞いても「母の勘だ」とだけ言い、明確な理由は無いというのです。

私は妊娠二ヶ月ごろからつわりがひどく、仕事を休むことにしました。
長期休暇に入った次の日、「なんだか脈が速いな」と思い、過去に不整脈があると診断を受けたこともあったので、県立病院を受診することにしました。

初診受付の時間が過ぎていたようで、受付で「また明日にでも出直してください」といわれたのですが、そこへ看護師さんがやってきて「症状は?」と尋ねるので「脈が速くて」と話すと「これは速過ぎる。今すぐ救急で診てもらいましょう」
と、救急救命センターで診てもらえることになりました。

私と同じ歳くらいの女性医師、H医師が心電図をとり、「不整脈発作を起こしています。点滴で抑えます」と診断し、
私が妊婦だと告げると、産婦人科医師と連絡を取りながら、「胎児に影響の無い点滴を使います」と点滴を打ちました。

そして「明日、私の先生であるU医師の外来を受けてみませんか?不整脈の専門医です」と提案されたので予約をお願いすることにしました。


次の日、点滴の効果は無く、脈拍は安静時でも140を超えている状態でした。
U医師の外来で

「妊婦に薬は使えない。
点滴が効かないとなると、堕胎し、薬を飲むか手術をしないと、この脈拍がずっと続けば出産まで心臓が持たない。
心不全で死にますよ」

と診断されました。
私の病気は「異所性心房性頻拍症」というもので、普通、心臓は洞結節というところから出る規則的な電気信号にあわせて収縮しているのですが、全く別の心筋細胞が電気信号を送ってしまうことにより心臓の収縮が乱れてしまう不整脈の一種です。


私は今まで発作を起こしたことが無く、妊娠が発作を起こす発端となったようだということです。

私は悩みました。産婦人科のかかりつけ医を県立病院のF医師に変更し、
何度も何度も相談しました。
F医師は「双子は大きく育っていて、今から堕胎するにもリスクが大きい」と診断しました。

ある日F医師から電話がかかってきました。

「U先生がどうしてもあなたに赤ちゃんをあきらめて欲しくないようです。
なんとか堕胎せずに手術をする方向で頑張ってみませんか?手術には大量の放射線を使いますが、U先生が赤ちゃんには出来るだけ影響を与えないように手術を行うよう努力します」といった内容のものでした。

手術はそけい部の血管から心臓に向かってカテーテルを通し、おかしな電気信号を送っている心筋細胞を特定し焼ききってしまう
「カテーテルアブレーション」という内科的治療です。

直接目では見えない血管にカテーテルを通すには、
大量の放射線を当て続けるので胎児の奇形が心配されます。

母は「私の勘は当たった。まだ見ぬ孫よりあなたの方が大切。本音は堕胎して欲しい。
でも私にとってあなたが大切なのと同じようにあなたにとって赤ちゃんは大切でしょう。あなたが決めなさい」
と私に言いました。


私はやはり、赤ちゃんに障がいが出てしまうのではないか、ということが一番心配でしたが、F医師の

「赤ちゃんの障がいは100人に1人の確立で起こる。原因は特定出来ない。
もし今回障がいを持った赤ちゃんが生まれたとしても手術が原因だと断定は出来ない。
障がいを持つ赤ちゃんを育てる勇気がなければ元々出産する資格は無い」

という言葉で生む決心が付きました。
手術は胎児に影響が出にくいように出来る限り遅い時期で、且つ私の心臓が力尽きてしまわぬよう出来る限り早い時期…
ということで妊娠4カ月に行うことになりました。

私の脈拍は次第に速くなり安静時でも160以上、少し動くと180近くにもなりました。
手術日までなんとか心臓を休ませようと寝たきりの生活を送りました。

手術は万全の体制で行われました。薬も点滴も妊婦に使用可能なものを用い、造影剤は使わす、
放射線技師が私のお腹に防護カバーをかぶせ、
お腹にどのくらいの放射線が当たったかをカウントする器械を設置しました。

多分妊婦がこの手術を行うのは全国初だということでした。

手術は成功しました。

不整脈の発生源を焼ききる根本的治療なので、私の不整脈は全く無くなり
U医師にも「普通分娩だろうが何だろうが全く問題ない。もう心臓は健康です」とお墨付きをいただきました。

私は実家近くの産婦人科で出産しようか悩みましたが、せっかくの縁で赤ちゃんが助かったのだからと
県立病院で産むことを決めました。


…この決断が私の生死を分けることになろうとは


この時は全く思っていませんでした。


双子妊娠は早産になることが多く、私は32週目ごろに管理入院になりました。
24時間点滴を打ちながら苦しい日々を送りました。

母は「赤ちゃんよりあなたが心配。早産でも今の医療ならば赤ちゃんは助かる。
でもあなたのお腹がこれ以上大きくなるとあなたが助からない」

と言い、何度も早く生むことを勧めましたが
私は医師が勧める「36週目」までなんとか赤ちゃんをお腹で育てたいと考えました。

しかし、日に日にお腹が苦しくなり、夜も眠れない日が続き、「少し早めに帝王切開できませんか?」
と相談するとF医師が「あなたは心臓手術のこともあり心配なので、34週に生みましょう」と言いました。

しかし、小児科医師が「34週では赤ちゃんにもしものことがあったら心配だ。NICUにも空きが無い」と了承せず、
結局35週目に帝王切開となりました。

出産なんてこの世の半分近くの人がするものです。痛いのは怖いな…とは思いましたが、
まさか命にかかわるようなことになるとは思いもしませんでした。

腰椎麻酔なので意識のある中で手術が行われたのですが、赤ちゃんが出てきて


「ああ、元気な男の子が二人だな」


とわかった後、私は麻酔の効きが良く、ついウトウトしてしまいました。
ふと気がつくと手術室には多くの医師が集まっていました。

「3リットル出た!」

「4リットルになるぞ!」

「15カ所もとまっているなんてすごいな」

F医師が怒った声で


「家族呼んで!!子宮取るぞ!!」


私は子宮からの出血が止まらず、止血器具で15カ所留めたが、危険な状態で子宮を切除するんだとすぐに理解できました。

その後の「全身麻酔しますね」という麻酔科医師の言葉とともに私の記憶はなくなっています。

次の記憶は集中治療室です。

私はお腹が大きくなりすぎたことが原因で弛緩出血という状態になり、体のほとんどの血液量である5.2リットルが出血し、3リットルの輸血を受け子宮を切除した、ということでした。

大きな病院だったこと、
しかもたまたま麻酔科医の手が3人も空いていたことで命が助かったそうです。

このような状態に陥る人は1万人に1人ほどの確立でいるそうです。
2年ほど前にやはり5リットル近く出血した妊婦は初産婦だったため、医師が子宮切除をためらい死亡し
医師が妊婦家族に訴えられ裁判沙汰になったそうです。

そしてそれが産婦人科医不足を加速させる結果に。
私はF医師が子宮切除の決断を下したときの手術室での必死な顔を思い出し、本当に感謝しました。

患者本人の意思が聞けない状態での切除というのは、辛い決断だったろうと思います。
また、あれだけの出血があったのに記憶があるということは、麻酔科医の対応が良かったのだと驚きました。

次の日には一般病棟に戻りました。
産婦人科の病棟の看護師さんが泣きながら私を集中治療室に迎えに来てくれました。
ようやく一安心…と思ったのもつかの間でした。

一般病棟に戻った次の日の夕方、私は突然息苦しくなり看護師さんを呼びました。


「息が出来ない!これじゃあ死んじゃう」


と思った後…私の記憶はありません。
実際には意識はあったそうなのですが、よほど苦しかったのか
私にはその後の記憶がありません。

次にまともな記憶があるのは、約10日後になります。

私は出産が大変だったため、
産じょく性心筋症という1~2万人に1人がかかるといわれている珍しい病気になり、心肺停止直前にまで陥ったそうです。
(ちょうど私が産じょく性心筋症で倒れた頃、朝日新聞にも特集記事が出ていました)

肺には水が溜まり、心臓は肥大し1割も動いていない状態でした。
最初の3日間は生存確率1割、その後5日間生存確率3割といわれ、
そけい部からは中心静脈カテーテルが通され輸血を受け、口からは人工呼吸器が入れられ、麻酔薬プロポフォールや安定剤などで眠らされていました。

意識があるため、夢と現実の中で、私はずっと

「赤ちゃんを置いて死にたくない」

と願っていました。
夢の中では自分の周りで寝ている人が次々と死んでいき、

「私も早く死にたい。でも赤ちゃんを置いてはいけない。
みんな死ぬのにどうして私だけ死なないの?」

と思っていました。
私は思わずH医師に「どうして私は死なないの?」と夢の中の出来事を現実で質問してしまいました。

H医師は涙を流しながら「どうしてなのか私にもわからない。ただ、あなたは私にとって初めての担当患者で、歳も同じだし忘れられない大切な患者さんなの。
心筋症になって倒れたとき、どうしても助けなければとU先生も私も必死だった。」

このH医師は、最初にも述べましたが、私が一番最初に不整脈発作で救命救急センターで見てもらった先生で、それがきっかけで、
カテーテルアブレーション手術の際もわたしの担当医を勤めてくださいました。

歳が同じということもあり、入院中に世間話などもして仲良くさせてもらっていました。

私が心筋症で倒れたのは午後7時頃で、私がカテーテルアブレーションを受けたことを知っていた産婦人科医師が
運よく1人だけ残っていて、「彼女は、心臓病患者でU医師の患者だから」と直接U医師、
H医師を「勘違いして」呼んでくださった事が、結果として私が助かった理由です。

実際は、私の不整脈は完治していました。しかし、「たまたま」同じく心臓が原因でした。


あと15分遅ければ私は死んでいたそうです。


また、本当は直接産婦人科病棟に内科医のU医師を呼ぶことはタブーだそうで、
医師らの迅速な対応のおかげで奇跡的に助かりました。

2年ほど前、心筋症でこの病院に運ばれた患者さんは亡くなったそうで、
一刻も早い病名の診断と救命措置が、命を左右します。

この病気は原因不明で、健康な人が妊娠出産がきっかけで突然発症します。

また病気の発症にも色んなパターンがあり、私は急性で突然死に至ってしまう状態でしたが、
人によっては、じわじわと心臓が弱っていくため、病院でも風邪か何かと勘違いされ、
気がついたときには酷い心不全の状態…というタイプの人もいるそうです。

母は「とうとう、今度こそ死んだ」と思ったそうです。私が集中治療室にいる間、
家族全員毎日泣きながら暮らしたんだ、と聞きました。
「病気になったのが自分でよかったな」と正直思いました。

私は元々特に病気も無く、
「双子を生むとあなたが死ぬ」なんて母の言葉が全く理解できませんでしたが、
まさか、これだけのことが自分の身に起こるなんて、
母という存在には子の未来を暗示する何か特別なパワーを持っているのだと思わずにはいられません。

私も子を持ち、母になりました。

いつか母の気持ちがわかるようになれたら、と思います。

また、元々不整脈を持っていたにもかかわらず、
一度も発作を起こしたことが無かったのですが、
妊娠をきっかけに不整脈発作を起こしたことが、のちの産じょく性心筋症の際、助かったきっかけとなりました。


つまり、私と双子の3人皆が助かるには、不整脈発作は必要だったのです。


双子の赤ちゃんが、私の命と自分たちの命を助けるために
不整脈を起こしたのでは…?と不思議な気持ちになりました。


今回の体験で、命のはかなさや出産の大変さを知ることが出来ました。
全ては結果論です。もし、母の言うとおり堕胎していれば…もしかしたら一生子供が生めない体になるかもしれない。

もし母の言うとおりもっと早めに出産していれば…私は無事だったかもしれないが、赤ちゃんに障害が出たかもしれない。

母は「もしあなたが死んでいたら医師を恨む」と言っていましたが、
すべては結果論で、医師が最善を尽くしたのは確かです。

この世にある命は全て尊いもので、
選ばれて望まれて生まれてきたものだと確信しました。

2010.06.20 投稿者:のり

不妊治療の末に授かった子供がいます。
重い病気と最重度の障害をもって産まれてきました。

妊娠初期、切迫流産の治療をしばらく続けました。
普通に、元気に、当たり前に産まれてきてくれると思った私のかわいい赤ちゃん。
でも普通の人の半分も人間らしく生きる事ができない。
おいしいものを食べて幸せを感じ、旅行に行って楽しいと感じ、恋愛をして嬉しかったり悲しかったり。。。そんな当たり前が私の子供にはない。

ママのところに来てくれてありがとうとは思えない。どうしても思えない。
産んでしまってごめんね。
あの時、ママがあなたを引き止めなければ、別の命としてあなたは病気を持つことなく当たり前の幸せを感じられる、そんな人生を送れたかも知れない。

でもね、大丈夫。今、こんなにも苦しく辛いけどその分、次に産まれて来る時は誰もがうらやむバラ色の人生が待ってるんだよ。
だから、ママと一緒にがんばろうね。
がんばろう。

2010.06.11 投稿者:ゆりねっこ

私ゎ25歳で3人の子供がいます。

1人目は18のときに妊娠

2人目は21のときに妊娠

3人目は22のときに妊娠しました。

*初産*
私は妊娠していることを3ヶ月のときに知りました。
私はまだその時結婚もしてなかったので不安でしたが自分のお腹の中に赤ちゃんがいるなんてとてもとても嬉しかったです♪
でも何もかもが幸せではありませんでした・・・

でも私はあるものに救われたんです^^
それは振動。
お腹が大きくなるにつれ、赤ちゃんの振動が感じられたのです^^
その振動には何回も救われました。
あっもう1人じゃないんだ。って・・・

*陣痛・出産*
陣痛がきたのは予定日よろ1週間過ぎた頃でした。
マタニティヨガをしている時に陣痛は来ました。
いつもとは違う張りを感じて間隔をはかると、なんと3分間隔でした^^;

すぐ産婦人科に運ばれて子宮口を見てもらうとまだ2センチほどしか開いていませんでした㊦㊦
それから3時間様子をみて子宮口をみてもらうともう全開でした!

分娩台にのって「ヒッヒッフー」を続けたら赤ちゃんの頭が徐々に出てきました。
そしてやっと出産。

8時間かけて産んだ我子・・・
3406gもありました^^
まだ見えないはずの小さな目で私を見てくる娘・・・

そして私はもっと子供を産みたいなと感じれました☆

名前は「空羅(そら)」空のように心が広い子に育ってほしいと名づけました。

それから次女・三女と娘を3人も出産しました。


そして現在妊娠中・・・
お腹には臨月の赤ちゃんがいます・・・
その子も女の子♪
また新しい命を授かって大変嬉しくおもってます・


出産は大変だけど、産んだ時の瞬間って忘れられない思い出だと思います。

「ママの所に生まれてきてくれてありがとう」

2010.06.11 投稿者:chikako

予定日をかなり超過して心配心配の中…11日、14時半頃突然陣痛がやってきました。


お腹の下の方での鈍痛。これかな?最初はこんな感想。
家族がいたので「痛い。これかな?」なんて余裕ある会話。
友達にメールで「こんな感じ?」なんて確認したりして。。
それから時間を計ってみることに。


初産婦は10分間隔になってからしか病院に行けませんし、入院できません。
最初は15分~20分間隔。
2時間過ぎた頃にはだんだん規則正しく鈍痛がやってくるように。
しかも痛みの長さも規則正しく。


痛いときは横になり、痛くないときはなんともない。
おぉ!!これが陣痛かぁ。
そう実感したのはシャワーを浴び、軽食を食べ、病院への準備をし始めた18時前後のことでした。


痛みはだんだん強く、そしてはっきりしたものになってきます。

TVを見たりしている余裕は少しずつ無くなり、病院に電話して確認。

完全に「陣痛ですね。10分間隔になったら再度お電話くださいね。」とのこと。


20時半過ぎに10分間隔になり再度電話するまで
家族でドキドキしながら時間を計りメモを重ねていく。
20時半過ぎに電話するも色々確認事項等がありすぐに病院に行けず。
家で過ごしてから来てもいいし、今来てもいいですよーと気軽に言われ拍子抜けw。


家族は心配してるし、私も痛みが強くなって心配だったので病院に行くことになり両親と旦那様とで病院へ。

10時→病院到着。尿検査。体重・血圧測定。着替えて陣痛室へ。オムツのようなパッドをつけられ内診。痛みは強くなりはじめる。

11時→これからのことを家族で相談。付き添えるのは1名の為、誰が残るか明日再度くるかの相談。朝まで一人で頑張ると決意。

12時→両親、そして旦那様には帰宅してもらう。一人で耐えられるくらいの痛みだった為、余裕発言。「大丈夫、大丈夫」

1時→陣痛って不思議。規則正しく間隔を空けてやってくる。。。「この痛みに何時間耐えるんだろう」不安が押し寄せる。

2時→間隔は変わらず。規則正しく痛みは来る。でも若干痛みは強くなりはじめる。当然眠れない。4人部屋の1人が分娩室へ。ドキドキ。。。

3時→多分さっき分娩室へ行った人が赤ちゃんを産んだのだろう、外がざわざわ。そしてこの時間から急に不安になる。痛みはどんどん強くなる。

4時→毎時見回りに来てくれる看護士さんに、「いつ頃生まれそうですか?」と質問攻め。だって不安なんだもの。痛くて眠れないんだもの。「朝方かなぁ」と言われ、ちょっと元気に。あと数時間後で赤ちゃんに会えるんだ!頑張ろうと思う。

5時→一睡も出来ず。痛みは強くなり、声を出さずにはいられない。隣の人が陣痛室へ。はぁ・・・経産婦は早いんだ・・・うらやましい。痛みが強くなり、おしりの下をぎゅーってグーで押して痛みを逃す。声もでちゃう。苦しくて泣きそうになる。

6時→痛みの中、深夜帰宅した両親が来てくれてほっとする。顔を見たとたん甘えてしまいそうになる。痛みは強く、初産婦にしてはとにかく早いお産の進み具合。「9時頃には生まれるかも」なんて言葉に旦那様に連絡何時にしようか?なんて相談しながら痛みに耐える。

7時→痛くて、痛くて、朝の食事がとてもじゃないけど取れない。少し食べてみるも痛くて辛くてやっぱり食べれない。あと数時間の我慢。そう言い聞かせて耐える。

8時→毎時の検診で看護士さんに「お昼頃には生まれますかね」なんて言われる。おいおい。。。延びてるよ。。。朝方にはって言ったじゃん!とにかく辛くてずっと同じ間隔で痛みが続く。親に話相手になってもらい気が紛れるも痛みが来ると感情的に。はぁ。。いつまで続くの?

9時→この頃、既に一睡もしてなくてへとへとに。水や食べ物。なんかトイレとかを気にしてぜんぜん取れなくて。。。辛い。トイレに行くのも陣痛と陣痛の間。ちょっとずれたらトイレで陣痛がやってくる。痛い。動くのがしんどい。

10時→旦那様が病院に到着。父、母、旦那様の3交代制がはじまる。今考えるととてもとても有難い。私の暴言、我侭がはじまるw。腰の上の方を押してもらう。横になるより、座ったほうが陣痛の痛みは楽に感じた。

11時→毎時の検診で「夕方には生まれますかね」と違う看護士さんに言われる。おーい。また延びてるぞ!。それもそのはず、お産の進みがぴたっと止まってずっと同じ間隔のまま、先に進まない。子宮口がひらかない。このまま耐えるしかない。

12時→両親が昼食へ。旦那様に1時間お相手してもらう。そばにいてくれてるのに痛みで文句ばかり言ってしまう私。そして大変さを分かって欲しくて何度も痛い痛いと繰り返す。きっと困ってただろうな。。。旦那様は必死に腰を押し続けてくれる。

13時→両親が戻り、旦那様が昼食へ。腰を押す力加減が、父だとちょうどいい。母だと弱いが、女同士の安心感。1名しか付き添えない為、交代で腰を押してもらう。もう何時間になるだろう。。。不安は募る。痛みは変わらず。文章にするは簡単だが、痛みは半端無い。

14時→旦那様が戻り、腰を押すのが3交代制に。両親の計らいで旦那様との時間を多めに取ってもらう。同室で4人いた妊婦も2人に。「私はいつ?」旦那に聞いても分かるはずもないのに。責める私。痛みでとにかく分娩室に行きたい、赤ちゃんを産みたい、開放されたい。泣きたくなる。

15時→本当なら、朝方に生まれてるはずなのに。今や夕方。。。本当に生まれてくるのか、この陣痛の痛みから解放されるのか心配になってくる。福岡から来てくれた父は明日福岡に帰ることに。赤ちゃんの顔を見ずに帰ることになるのだろうかと不安になる。痛みはどんどん大きくなり腰より下を押して欲しくなる。

16時→毎時の検診で「今日中に生みましょう」と助産師の方が励ましてくれる。ちょっと光が見えた。頑張ろうと思う。痛みはだんだんピークに。もうすぐか?もうすぐか?期待しながら座っていられず横になる。陣痛と陣痛の合間にうとうと。

17時→陣痛と陣痛の間に寝ているんだろう、記憶がない。でも陣痛がくると半端無く痛くて起きてしまう。そうだ・・・ずっと寝てないんだ。気力、体力、そして精神力がほぼゼロ。痛い。痛い。痛い。痛い。隣の妊婦が分娩室へ入り、私一人に。分娩室から叫び声が聞こえる。不安に。旦那様の前で泣く。涙が止まらない。

「私にも赤ちゃんが産めるの?」

18時→陣痛が遠のいてきているので散歩をするように言われる。もうここまできたら強行だ!旦那様に付き添ってもらい、病室や廊下を歩く。歩いていても陣痛はやってくる。壁の手すりにつかまりながら、旦那様に腰を押してもらいながら頑張って歩く。動く事で下に下に下りてくるんだろう。夕食が運ばれるも食べる気になれず。散歩のおかげで陣痛が強くなってくる。

19時→助産師さんに内診をしてもらい、子宮口がもうそこまでひらいているとのこと。相談して、破水させてもらう。はさみを入れ破水。あたたかい間隔が足元に広がる。赤ちゃんがこれで出てくる。ちょっとほっとしたのもつかの間、痛みは今まで感じたことのないくらい強い痛みに。足の間から何か出てくる、ぎゅーっとした間隔。言葉にだせない痛み。

20時→分娩室へ行く準備。陣痛は間隔が無いくらいどんどんやってくる。すこしうとうとしつつ、痛みと戦う。母と助産師さんが作ってくれた小さな小さなおにぎりを体力付けに食べる。旦那様が食べさせてくれた。感謝。水分が欲しくなる。汗が出る。ベットの横の柵を握りしめ、ひっしにいきみたいのを我慢する。声を出すしかない。生まれる!出る!そんなことを叫んでいたはず。顔を真っ赤にして耐える。分娩室へ行きたい!赤ちゃんを産みたい!

21時→分娩室へ移動。未知のお部屋。でもやっと産めるんだ。「あとどのくらいですか?」と聞く。「1時間ちょっとかなぁ。頑張りましょう」いよいよ。。。出産へ。。。。旦那様に前以って書いた手紙を渡す。

こんな風に陣痛にずっとずっと24時間以上耐えてきました。

初産婦の分娩時間は12時間くらいだから2倍!?

寝てないし、食べてないし、へとへと。

でもでもここから分娩室で最大の痛みに耐えて頑張ることに。

着替えをして、水分補給をしてから分娩台の上に。登るだけでも痛みがあるから大変。足を広げるのも横になるのも大変な状態に。

体に陣痛を計る機械を付けられて、いきむ時の説明を受けながら実際にやってみることに。とにかく痛い。


陣痛にあわせて、横にあるグリップを握りながら、目線はお腹、息を止めまて足の間に力を込める。赤ちゃんの頭が出たり、入ったりの状態。

これがとにかく苦しい。
後で聞いたら声が聞こえてたくらい「痛い!」と何度も分娩室で叫ぶ。


いきみの説明を聞いて何度か挑戦してみるがぜんぜん頭は出てこない。
「助産師さんは頭が見えてますよ」と励ましてくれるが実感もなければ痛みでそれどころではない。

それまで知らなかったんだけど、上向きのまま産むのと、横向きのまま産むのと2種類あって、経験だからと横向きのままいきんでみることに。


これがとにかく痛くて痛くて、すぐに断念。
私は上向いて産みます!と伝え、上向きに。


「吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー吸ってー。ハイ!息止めて!」

「いきんで!!!」


これの繰り返し。これを繰り返して赤ちゃんの頭を出します。

ここまで助産師さんと2人きり。「いきみます!」と叫びながら頑張って呼吸。だんだんコツがつかめて来て、無駄のないようにいきもうと決意。

んんっ!!っといきむけど、痛みと苦しさでどうしても唇の間から息が漏れてくる。そうすると1回のいきみが無駄になってしまう。

次こそは!とまた、んんっ!と頑張ってみる。

陣痛と陣痛の合間には体力の限界で意識が朦朧としてくる。

また吸って吐いてーの繰り返しで んんっ!といきみ。

そんなことを続けていると、青い手術着を着た先生と看護士さんが2人。
楽しそうに会話しながら準備をしている。

「もうすぐですよー」と言われほっとする。
あと15分くらいでこの痛みから解放されるんだ!頑張ろう!

今度は先生に説明を受けながら、そして褒められながらいきんでみる。
どうやら私のいきみは上手に出来ているようだ。

「リハーサルをして、本番で産みますよ!」
そう言われてリハーサル。

あまりよく覚えてないが、その時、赤ちゃんが大きいので切開手術をする為の麻酔やらなんやらかんやらされていて。。。(産む痛みが強すぎて痛みはぜんぜん感じない)

いざ本番!

「吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー吸ってー!ハイ!息止めて!」
『いきんで!!!!!』

んんっ!          はぁーーーーーーーーーー。

「吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー吸ってー!ハイ!息止めて!」
『いきんで!!!!!』

んんっ!  

「息抜いて!いきまないで!」

つるん!!!!!!!!!!!!

「頭が出ましたよ!」

つるん!!!!

「おめでとうございます!元気な女のお子さんですよ!」

『んぉんぎゃーおんぎゃー!』

じーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。

(涙)(涙)(涙)(涙)(涙)(涙)

(感動)(感動)(感動)(感動)(感動)

赤ちゃんを一瞬抱かせてもらいました。

私の中から生まれてきたこの赤ちゃん。
よく頑張ったね。本当によく頑張ったね。
生まれてきてくれてありがとう。
頑張ってくれてありがとう。

涙が止まりません。

赤ちゃんは体重を量ったり体をキレイにしたり。

私は胎盤が出て、手術の縫合など後処理を。

ぼーっとしながら、縫合の痛みに耐えながらなんかじわりと実感。

赤ちゃんが外に連れていかれ、きっと旦那様の所へ。

縫合が終了して、体を拭いてもらい(大汗)、出血多量だった為、点滴をしてもらい落ち着きます。

そして・・・・

旦那様が赤ちゃんをしっかり抱いて、分娩室へ登場。
続いて両親が登場。

赤ちゃんを抱いている旦那様を見て、本当に感動しました。
『がんばったな』って。言ってくれました。


私とあなたの赤ちゃんだよ。

本当に頑張って生まれてきてくれたんだよ。

ありがとう、嬉しいね。って。

再度、私の元へ赤ちゃんを寄せてもらいはじめておっぱいをあげます。

まだ出ないんだけど必死に探して吸ってくれてる赤ちゃん。

いとおしい、とはこういう時の言葉なのね。


その後はみんなで写真を撮ったり、寝顔を見たり。
疲労の中、最大の幸せ感が広がります。


平成21年 10月12日

22時17分

3715グラム 女の子にしてはとても大きい子w。

元気。


私の陣痛→出産レポートでした。
26時間の長い分娩時間でした。


私、思いました。

この子を一生大事に育てたいって。

たくさん愛情を注ぎたいって。

これからたくさん、育児の壁にぶつかって、迷い悩むんだろうけど
でもこのときの『生まれてきてくれてありがとう』の気持ちを思い出して
頑張っていこうって。

本当に生まれてきてくれてありがとう。

私に家族ができました。

そのことが、本当に本当に嬉しくて。

那々里の~存在~が本当にありがたい。

長くなりましたが。。。。以上出産日記でした!。

2010.05.28 投稿者:いとう美羽


こんにちわ☆
私は、24歳で5歳と1歳の子供を持つままです。
思い切って書いて見る事にしました。

私は16歳の時に妊娠しました。
ですが、若かった私は妊娠に関して知識もなく全く無知でした。
初期から何回も出血を繰り返し通院ばかりしてきました。
当時は妊娠=元気な赤ちゃんが必ず産まれると思っていました。
ですが、何かしら異常があったんです。
6ヶ月半ばで死産でした・・。
陣痛を起こして、子宮口を広げてと激痛な事ばかり。
本当にすべてにつらかったです。
すごく悲しくて毎日悲しみに明け暮れました。
でも若かったからかその時は立ち直るのも早かったんです。
その時に彼とはそれが原因で別れてしまいました。

月日が立ち、17歳でまたまた妊娠。
18歳で40週1日、2714gの可愛い娘を出産しました。
骨盤が特殊な形で帝王切開かもと言われてましたが
どうにか24時間近くの陣痛の末、普通分娩が出来ました。
でも、人口的に全開にさせて、人口破水でした。

それからはなかなか妊娠せずに22歳で妊娠。
予定日が4月11日でした。
妊娠糖尿病を疑われ、検査ばかりでした。
ですが、普通分娩が出来るという事なので自然に陣痛が来るのを待ちました。
臨月に入ってからは前駆陣痛が強く
ひどい時は10分おきの陣痛が6時間とか続き早産になると焦りました。
どうにか持ちこたえたのですが3月30日
あまりの痛みに一睡も出来ませんでした。
でも、学年の関係上4月2日以降に産みたかったので
病院には行かなかったのです。。
1度経験してるのでやばい時はわかるかな??と・・。
ですがあけて、3月31日・・・・・・・
さすがにやばいと思い、鉄剤の点滴がてら病院に行きました。
子宮口も開いていてこのまま入院と言われましたが
まだ産みたくないといい
怒ってる先生を無視をして帰宅しました。
あけて4月1日になった頃、限界を感じておとなしく入院。
この時点で2日近く寝てませんでした。
若いとはいえ、痛みも強かったので体力が限界!!
陣痛はかなり強いのに子宮口が開かない・・。
促進剤を投与し、またまた人口破水で、人口的に全開まで開き
思いは届かず4月1日エイプリルフールに
3134gの可愛い息子を産んでしまいました。
本当に、子供がかわいそうでなりません。
毎回、毎回、何かしらトラブルのあるお産です。
25kgも太った体重も産後1年で163cm44kgまで戻りました。


何人産んでも、お産は異なります。
本当に感動的ではありますが本当にお産は大変。
4月1日に産んでしまった後悔もいつになっても消えません。
ですが、可愛いわが子には変わりないです。
早く、次の子を生みたいです☆
あと3人は産みたい(*^▽^*)

くだらない内容ですいませんでした。


2010.04.29 投稿者:まなみん

私は5歳3歳1歳の母親です。

毎日がとてもあわただしく過ぎていき子供たちが毎日
元気に遊んでいるのが当たり前になっている毎日。

3人とも助産院でのお産でなんの問題もなく人並み以上の
安産でとってもいいお産を経験しました。

それが当たり前と思っていました。

今年の正月。

姉の2人目の予定日3日前。

同じ助産院での出産。
2人目の姪っ子の誕生が待ち遠しくいつ生まれるかいつ生まれるか
こころ待ちにしていました。

朝からいつも通りの検診。

そこでの衝撃的な事実。

おなかの赤ちゃんは心臓の鼓動を止めていました。

泣きながらかかってきた姉の電話に何も言えない私。
とにかく姉のそばについていてあげたくて急いで助産院へ向かう。

陣痛がきているのでこのまま産むとゆう。


・・・・・・・。
あの陣痛の痛み。3人安産で産んでいるとはいえやっぱりつらいもの。
でもあのつらさも生まれてくるからこそがんばれるもの。
なのに死んでいる子をあの痛さとともに産まなくてはならない姉。

陣痛と陣痛の合間に号泣。そして陣痛・・・・・。
その繰り返しが見ていられないほどつらく長い時間・・・・。

それでもやっぱり母強し。

産んであげることこそ私がこの子にしてあげられる最初で最後のこと。
がんばって産んであげないと。

母親が子供に対する愛情そのものの発言。

生まれてきた子は私の子供たち、2歳になる姪っ子、みんなにソックリでした。

そんな姉も最近では赤ちゃんがほしいというようになりました。
出産が怖くもあるみたいです。でもやっぱりもう1人赤ちゃんを・・・・と。

自分の手元で子供が笑っている。本当に奇跡なこと。
毎日のあわただしさ、段々と生意気になっていくわが子。
そんな中で忘れてしまいそうなる。

この子供たちは奇跡の中で生まれてきて奇跡の中で
育っているんだ。


もっともっともっと大切にしないと・・・・・。


虐待をしている母親たちは自分でも抜け出せない真っ暗闇の中で
さまよっているんだ。
出産のときの奇跡。子供の産声。
思い出して。自分の中に宿った奇跡。
自分に似ている顔。しぐさ。癖。
思い出して。その子はあなたの子供なんだから。
みんなみんな母親から生まれてきた同じ命。

みんなで奇跡の命を大切にしないと・・・・。

2010.04.21 投稿者:chiaki

2009年の夏。
初の我が子を出産しました。

まだ、20代前半だった頃、妊娠、出産がこんなに奇跡的で尊いものとは、
知りませんでした。

27歳で結婚。子どもはすぐには欲しいとは思っておらず、30歳までに産めたらいいかな~という
気持ちでした。

でも、28歳になると、あっという間に30歳になってしまう・・・と焦り始め、基礎体温を
計ったり、婦人科にかかってみたり。
仕事中心で、自分のことは後回し。そのツケが回って、身体はボロボロでした。
無排卵だったり、月経不順だったり・・・。

2008年。初めての妊娠。大喜びしたのもつかの間。7週で流産。
それでも、仕事を休めず、身体を酷使していました。
2か月後、再び妊娠。今度は、かなり用心したもののまた、流産。

もう私には、子どもが産めないかもしれない。。
でも、焦らず夫婦だけでも仲良く暮らそう。
そう思ったら、3度目の妊娠。

3か月間、悪阻と切迫流産でほぼ寝たきりでしたが、ひたすら育ってくれる事を
信じてすごしました。

妊娠後期には、体調も良くなり、穏やかな日々でした。

出産の日。
前日の検診では、まだまだ産まれないと言われていたのに、
陣痛はどんどん強くなり、間隔も短くなり。。

夫の帰りを待つかのように強い陣痛。

夜に入院し、次の日のお昼までかかると言われたけれど、
夜中に誕生。
ずっと、側でサポートしてくれた夫に本当に感謝しています。

夫も、『女性は本当にスゴイ!尊敬する』と話していました。

なかなか授からなかったり、流産も経験し、本当にたくさん涙したし、
つらい思いもしました。

でも、そんな体験があったから、命を授かり、無事に出産することは
奇跡のようなことだと、より感じています。

ちなみに、何歳で出産!なんてこだわりは一切なくなっていたのに、
30歳になる2週間前に産まれてきました。

育児に疲れる時もありますが、出産した日のことを思い出すと、
我が子が愛おしくなります。

息子よ、
私達を選んで、元気に産まれてくれてありがとう。
これからも、どうぞ宜しくね。

2010.03.23 投稿者:命は奇跡

フィリピン人の主人と家庭を持って16年。
その間に4回の妊娠と3回の出産。
2回目の妊娠がけい流流産でした。全く流産したこともわからず、妊娠確認4週間後に産院へ行ったら、心音が確認できず、けいりゅう流産と診断され、念の為さらに1週間後の診察の後、手術をしました。

当たり前に出産できた第1子。妊娠中もつわりもなく、本当に何の心配もなく無事に生まれてきたので、よもや自分が流産するなんて・・・。でもけいりゅう流産の場合、全く自覚症状がないので、妊娠したことも流産したことも何事もなかったかのように過ぎ去ってしまいました。第1子が1才になり、再就職し、仕事が忙しく、妊娠・流産も出張のさなかに起きた出来事だったので。

こんな私がさらに仕事を続けながら、第2子、第3子と3年おきに出産し、現在は14才、11才、8才の1女、2男の母として今日も忙しく母として妻として家庭を守っています。今は仕事をしてませんが、今さらながら本来の母としての役割がとても重要だという事に気づき、しばらくは家庭を中心に良き妻、良き母に徹しようと思っております。

2010.02.04 投稿者:tamachan

あなたに逢えたこと 私の誇りです

あなたのおかげで  人の親になることが出来ました 

あなたのおかげで  何があっても強くなりました

あなたに逢えて   初めて命をかけて守るものが出来ました

結婚してすぐに授かるものだと思っていました。しかし現実は一年半経ってもできず
たまたま行った病院で排卵障害と診断されました
診断のおかげか今まで悩んでいた荷物を半分お医者様に預けたようで気持ちが楽になりました
あとは任せとけばいいと 

排卵誘発剤を飲み始めて3ヶ月 初のエコーでのタイミングで見事妊娠
一回目で出来ると思っていなかったので夢なのではと病院に行くまで毎日検査薬をしました
もともと体格のいいわたしは太りすぎると帝王切開になるよと言われ
臨月まであまり体重を増やさないように頑張りました

しかし結果は予定帝王切開 私の骨盤が生まれた時から狭いとのこと
お腹を切るのが嫌で今まで頑張ったのにと落ち込みました

いざ手術の日の朝 不安よりも夕方には逢えるという気持ちでいっぱいでした
入院しNSTをしていると定期的な張りがあり陣痛が始まっていました
この陣痛の痛みで私が初めて母になる心の準備が出来ました

手術室に呼ばれ腰に麻酔を打つも効かず全身麻酔になり赤ちゃんに逢えるのは後になりました
その頃旦那さんは手術室の前をうろうろ
その光景はまるでドラマのようだったと言ってました
いざ手術が終わるも痛み止めの麻酔も効かなかった為私は自分の事でいっぱいいっぱい
ようやく痛みにも慣れてきたのでだっこをすることに
わが子の重みは腕にずしっときました
今でもあの時腕に感じた命の重みを忘れません
そしてこれからも

2010.01.21 投稿者:mai

若くて未熟なわたしが唯一誇れること

それはあなたとの出逢いです


わたしはあなたに守られて強くなります
あなたが産まれたあの夜の感動があれば
ママはどんなことがあってもへっちゃらだと思えるのです


おひさまのにおいと
あたたかい体温


わたしの家族

あいしています
ありがとう

2010.01.07 投稿者:ひとみ

2009年5月に第一子の女の子を出産しました。 
妊娠中も出産も特に問題無く無事に母親になることができました。
立会いは、主人と主人の母、私の母の三人です。
周りからは義母を立ち会わせた事は驚かれます。私自身はとても自然な気持ちで立会いをお願いしました。それには過去の出来事が関係しています。

私が19歳の時。主人も19歳でまだ彼氏、彼女の関係でまだまだ子供だったころです。
突然の妊娠。
二人は子供ながら重く受け止め喜びあい、両家で話し合って生むことを決意しました。
さっそく産婦人科へ行き、初めてのエコーを撮りました。まだ点にしか見えなかったけど、ちゃんと心臓の動きがわかり、とても感動したことを覚えています。

でも悲しい結末がすぐにやってきたんです。けい留流産でした。
先生に説明されてもすぐにはぴんと来なくて、帰り道、歩きながらやっと理解して泣きながら帰りました。
すぐに彼に報告して、彼の実家へ。
義母は泣きながら話す私を抱きしめて、一緒に泣いてくれました。
家族みんなが悲しんでくれました。

それから、私も彼も、いつかまた二人の赤ちゃんを授かりたいと心に誓いました。それまでの時間は二人が親になるために成長する時間と考えて、籍を入れるのを辞めました。


たった一枚のエコー写真を額縁に入れてしまっておきました。一瞬でも私のお腹で生きていた赤ちゃんの事を忘れたくなくて。

それから三年後に彼と結婚し、二年後に妊娠したのです。
最初に妊娠した時よりも明らかに気持ちが違いました。尊い命の重みを感じると共に喜びと不安の入り混じった感情でした。

そして、出産間近に義母に立会いをお願いしました。
あの時、一緒に泣いてくれて、励ましてくれて、抱きしめてくれたお義母さん。
私は絶対に娘の誕生を間近で見ていてほしかった。それが恩返しになると思ったから。

そして、私含め四人で17時間頑張りました。
無事産まれた娘を見て、みんな感動でいっぱいでした。
私も、やっと出会えた我が子を見て、やっと本当に報われた気がしました。
あの時天国に逝ってしまった赤ちゃんは、この日のために身を引いてくれたのだから今この手の中の我が子をしっかり愛情もって育てなくてはと、深く心に誓いました。


最近、出産直後に赤ちゃんを捨ててしまうニュースを頻繁に見ます。
妊娠も出産も当たり前の出来事ではい。
どんな理由があっても、産まれてきた命を捨ててしまうなんて、殺してしまうなんて絶対やってはいけない。身勝手すぎる。


最近、妹の友達が妊娠した。まだ18歳です。出産するそうですが、私は自分の経験があるから色んな意味でとても心配です。
予定は2010年6月頃です。
それまでにこの映画のようなリアルな奇跡の瞬間を見て、何かを感じ取ってほしいなと思っています。

2010.01.07 投稿者:さち

やっとこういう素晴らしいドキュメンタリーが出来上がるかと思うと
うれしいです。
2001年に不妊治療の末に二卵性品胎を妊娠しました。
三つ子にとまどいながらも楽しみでしたが、
25週で双胎間輸血症候群で緊急帝王切開。
二人の赤ちゃんをお空に見送りました。
とてもつらかったです。
しばらくはメンタルクリニックに通いました。
小さな骨壷二つをなかなか納骨できずに親戚に
いろいろといわれました。

でも一番ちいさかった610グラムの娘が生きていましたので
毎日搾乳をして面会にいきました。
生きるか死ぬかをさまよっていた娘。
どんな姿でもいいので生きて欲しいと願いました。
今は元気な8歳になっています。
そして周産期医療の医師になりたいと目標を持っています。
本人が自ら志望した夢。

「私には頑張った痕がある」とたくさんの点滴の痕を
誇らしげに見せてくれます。

「今度は私がお母さんや赤ちゃんを救う医師になる」と
言い切った時には運命を感じずにはいられませんでした。

2005年には女児を
2009年には二卵性双生児の男女を無事うみました。

最初の出産は慌ただしい悲しい思い出になってしまいましたが
他はとても充実した素晴らしい出産でした。

この映画を通して、産科医療の崩壊危機なども世間に認知して頂くと
よりよい物となり出生数も増えるのではないでしょうか。

娘と楽しみにしております。

2010.01.02 投稿者:きょろ

2009年8月31日二人目の女の赤ちゃん誕生しました。なかなか陣痛が強まらず陣痛促進剤を6回も飲み、叙序に陣痛が来て、本格的な陣痛が来て3時間。分娩室に入り15分と言う安産で生まれました。二人目は安産でありましたが、何と一人目は超難産で3日かかり大変でした。もともと怖がりな私で無事出産できるか不安で臨月に入ると血圧も上がり、夜もなかなか眠れず。どうなるか心配でした。結果赤ちゃんが苦しくなり吸引分娩で生まれました。私の事を一番心配している母は生まれるまでずっと寝ないで心配していたそうです。ちょうど4年前私は、無月経で婦人科に通っていました。そのとき先生に妊娠は難しい事を告げられました。その帰りつらく泣いて帰りました。多卵巣脳腫という病気で手術を勧められて、手術をしましたが、なかなか妊娠することもなく、先生に違う方法を一緒に考えましょうといわれました。そのあきらめかけた時何と誰もが先生も驚くことに奇跡的に妊娠したのです。信じられないくらい胸がいっぱいでうれしくてたまりませんでした。本当は手術と漢方で治す方法があったけど、どうしても急いで赤ちゃんがほしかった理由として主人の両親は年配で生きている間に赤ちゃん見せたかったからです。そのことを私の母に話したら手術の時麻酔から目を覚まさなかったとき、お父さんないてましたよ。今まで涙なんて見せたこと無い人だったので驚きました。でも親になった今は、私の父母はどんだけつらかったのだと思いました。手術しないでも他の方法があったのにってたまにいいます。もし娘が同じ立場なら私も辛いと思うし反対してしまうと思いました。今はかわいい女の赤ちゃんを見てるとその手術のことはいいませんが、結果両親を傷つけてしまった事、これからは少しでもたくさん親孝行が出来たら思っています。母になった今、両親には本当に感謝しています。
この映画を見て、出産したときは感動してしたのに、日々育児をしているとそのときの感動は忘れがちにイライラもするし、ストレスもたまる一方だと思いますので、もう一度思い出し育児もリセットできたら毎日が新鮮な気持ちで育児できろと思うので楽しみにしています。

2009.12.08 投稿者:ゆきちゃん

2008.7.7 39w1d 2574gで娘は産まれました。
元気な産声だったそうです。

家庭的な雰囲気が気に入っていた診療所から37wで総合病院へ転院
原因は


「子宮内胎児発育遅延」


しかし娘に原因があった訳ではなく、本当の原因は辺縁前置胎盤この前置胎盤を見落とされ総合病院でもわからず、内診を受けた。

37wの検診日の夜中に一回目の出血 パンツもパジャマもシーツも濡れて
危険予知が苦手な私でさえ「コレはおかしい!!」と病院へ電話するも「内診が原因か、おしるしですね、陣痛を待ってくださいね」と。

でもこれが実は警告出血でした。38wの検診は母に付添ってもらい、39wの検診日
暑い朝でしたが、8時45分に家を出て歩いて40分かけ病院へ。
内診台で突然
「ドバっ」

「ななさん!!出血しまし!!」

「今から帝王切開だ!!」

「杉江~!来てくれ!!」と隣の診察室の先生を主治医が怒鳴り呼ぶ。
カーテンあけられ
「お母様は?」「今日は一人です」

「直ぐに電話をしなさい!」

「なんかぁ 出血したみたいで、帝王切開になるみたいだよぉ」

「電話を貸しなさい!!何分でこられますか?!10分ですね!!急いでください!!」

私一人はなにが起きたのか、何がこれから起きるのか全くわからないまま、
ドクターが3人がかりで超緊急帝王切開でした。
泣く余裕もないままお腹から娘は出ていきました。

先生方には感謝をしていますが、、、納得できないモヤモヤはいつ解消されるのかなぁ

2009.12.07 投稿者:なな

私には2005年3月、私の38歳の誕生日2日前に生まれた男の子と、お空に1人天使ちゃんがいます。

まず第一子は高齢出産でしたが、妊娠中は切迫早産で3週間ほど自宅安静の時期はあったものの、それ以外での大きなトラブルはなく、本当に幸せな妊娠期間を満喫していました。
出産から産後にかけては、出産時に吸引分娩となってしまったり、母乳育児でのトラブルなどいろいろありましたが、2年前からこの映画のスタッフである大葉ナナコさんの下で「いのちの語り部」として勉強を始め、現在少しずつですが活動を続けています。
この勉強を始めようと思ったのは、長男の出産がきっかけですから、長男の誕生日は同時に母としての私、そして、いのちの語り部となる私がうまれた日でもあったのだと、感慨深いものがあります。
たくさんの学びのきっかけをくれた息子には本当に感謝しています。

子どもは2人は欲しい、と考えていた私は、年齢を考えるとなるべく早く次の妊娠をと思っていましたがなかなか授からず、ようやく昨年の2月に待望の妊娠発覚。
が、7週での流産となり、第二子となるはずだった赤ちゃんはお空に還ってしまいました。

いのちの話を伝えるための学びの中で、知識としては流産の可能性があることも知っていましたが、実際に体験するまでは本当に「他人事」でした。
まさか自分の身にそんなことが起きるなんて、と、本当にショックでした。
そして、実は周りにも同じ経験をした人たちが多くいたこと、そして「死」がタブー視されているせいかそういった話題が出ることはほとんどなく、またメンタル面でのサポート体制も少ないため、流産や死産(誕生死)を経験した人たちが自分を責めたり、周囲の言葉で傷ついていたり、逆に周囲の人は心配しているのにどう接していいのかわからず悩んでいる状況があることを知りました。

胎内記憶の研究をされている池川明先生の著書の中に「お空に還る赤ちゃんたち」についての記述がありますが、私の天使ちゃんは、私にどんなメッセージを伝えるために来てくれたのかと、昨年来折につけ考えています。
今でも昨年会うことができなかった天使ちゃんのことを考えると悲しいですが、その体験があったからこそ気づくことができたことがたくさんあります。

こうした気づきから、いのちを語る想いに変化がうまれました。
また、誕生死について、もっともっと知ってもらい、サポート体制が整ってほしいという気持ちがうまれました。
そして、同じ体験をした者として、何かお手伝いできることがあるかもしれないという気持ちもあります。
昨年お空に還ったあの子のおかげで、こうした想いがうまれてきたのかもしれません。
それがメッセージなのかもしれないと、今は思っています。
本当のところはわかりませんが、これからもずっと考え続けて見つけていくのでしょう。

現在私は42歳となり、限界が近づいてくることに少し焦りを感じつつも、またあの子が来てくれるのか、それとも別な子が来るのかはわかりませんが、きっとまた赤ちゃんが来てくれることを信じて待つ日々を送っています。
その気持ちを支えてくれるのは、胎内記憶を語ってくれる子どもたちのお話しのおかげです。
本当にありがたいです。

この映画によって、生まれてくることの奇跡、生きているこの奇跡に気づくことで、地球上のすべての人が「幸せになるために生まれてきた」ということを思い出すきっかけになってもらえたらと願ってやみません。

幸せな大人が、幸せな子どもがたくさんいる社会になりますように。。

この映画の成功を心より応援しております。

2009.12.06 投稿者:hana

今年6月に女の子を出産しました。
36歳で初めての出産、いわゆる高齢出産です。

妊娠したときは、単純にうれしく、「私もついに妊婦かあ」という
喜びばかりでしたが、妊娠三ヶ月ごろに出血。便器が真っ赤になるほどの
血を目の前に、真っ青になったのを今でもはっきり覚えています。
「ああ、赤ちゃんが死んじゃう!」怖くて怖くて、半泣き状態。急いで病院に
電話し、とりあえず様子を見て、翌朝受診。
診察の結果は、絨毛膜下血腫。「お腹の赤ちゃんは今のところ元気なので
安静にして様子を見ましょう、ただ、これで赤ちゃんが亡くなるケースも
なくはないので、軽く考えないように」と言われました。

それからは、地獄のような妊娠生活の始まりです。家の中をそろりそろりと
歩き、トイレ以外はベッドから起き上がらない日々。実家も遠いので、頼りに
なるのは主人のみ。食事も、帰りの遅い主人にコンビニで買ってきてもらうような
日々でした。トイレに行くと少量の出血は続いていたし、またいつ大量出血するかと
思うと不安で不安で、ベッドの上で泣く日々でした。
そして少し落ち着いたかと思った矢先に、二度目の大量出血。夜遅く一人でタクシーを
呼び、病院へ。幸い、赤ちゃんは元気でいてくれたのですが、それからもずーっと
私の妊娠生活は不安でいっぱいのものでした。

仕事もぎりぎりまでやろうとおもっていたのに、早々と産休をとり、テレビで大きな
お腹でぎりぎりまで働く芸能人を見ると、普通はあんなに元気な妊婦さんなのに、
なんで私はこうなんだろうと落ち込む日々でした。
しかし、世の中には妊娠初期から出産までずーっと入院する妊婦さんもいると聞き、
妊娠は人それぞれなのだということを知りました。

安定期に入ってからも、二度の大量出血がトラウマになり、あまり出歩かず、
ビクビクおびえながらの妊娠生活が続き、妊娠なんて二度と嫌だと思うようになりました。
そんな日々を過ごし、妊娠八ヶ月のとき、里帰り出産するために少し早めに帰省しました。
そして、妊娠九ヶ月で、今度は赤ちゃんが下に下がり気味で早産傾向にあるので自宅で
安静にするよう言われ、またもやほとんど寝てばかりの日々。

そうして、なんとか一ヶ月を過ごし、やっといつ生まれてももう大丈夫という時期が
やってきました。そうして、三週間早い37週の深夜、ちょっと多めに尿漏れしたかなと
思い、トイレに行くと出血。これは「おしるし」だろうと思いながらも、血を見ると
やはり怖い。病院に連絡し、夜中に入院。朝まで5分感覚の軽い痛みが続き、その日の
午前中に先生に診察してもらい、「子宮口が三センチ開いてるから、子宮口を開かせる
薬を飲みながら、今日出産にもっていきましょう」とのこと。
赤ちゃんはすでにかなり下がっていたので、あとは子宮口が開くのを待つばかり。
が、この子宮口がなかなか開かず、陣痛が三分間隔になっても子宮口は五センチしか
開いてなくて、赤ちゃんがすぐ下まで下りてきているせいで、いきみたくていきみたくて
気が狂いそうな痛みに耐えながら、「もう限界!帝王切開にしてほしい!」と叫びそうでした。

私の苦しみようを見て、分娩台に連れて行った方がいいと判断した看護師さんに連れられ
ひきづられるように分娩室へ。分娩台に上がっても子宮口は五センチのまま。でも、
ほんとにもう限界でした。いきまないではいられない痛さ。
「もうダメ!」って口にした矢先、一気に子宮口が全開。「いきんで!」という言葉を
聞くやいなや、無意識のうちにいきんで、三回いきんだら生まれました。
どうやっていきんだらいいんだろうとか考えてる間もなく。
分娩台に上がってから15分くらいで生まれ、安産だと言われましたが、陣痛が始まってからは
結局10時間以上経っていたので、ヘトヘトでした。

赤ちゃんの顔が見たいとか、かわいいとかいう余裕はなく、赤ちゃんの泣き声を聞いて
一安心し、「ああ、やっと無事終わったあ」という感じでした。あのビクビクした毎日から
解放されるという安堵感が大きかったのを覚えています。
でも、本当に無事に生まれてくれてありがとうと心から感謝しています。

そして、いま、子育ては想像以上にしんどくて、体中がボロボロの日々ですが、やはり
いろいろなものに感謝する毎日です。
生まれるということがどれだけ奇跡的なことなのかを気づかせてくれた赤ちゃんに感謝し、
そしてまた自分を産んでくれた親に心から感謝しています。

妊娠出産は本当に命がけで大変なものです。人それぞれ、みんな違います。
どうか、いま妊娠中の人でつらい思いをしている人も、必ず来る赤ちゃんとの出逢いの
瞬間まで頑張ってほしいと思います。

長々と書いてしまいました。
この映画、必ず見ようと思います。楽しみにしています。

2009.11.28 投稿者:73

お友達から「うまれる」のことを聞き、生きる・死ぬを身近に感じている人達がたくさんいることを知りました。

私は、今年の夏に長男を出産しました。
妊娠経過は順調だったものの、予定日を過ぎたある日、胎動の消失に気づいて受診、そのまま緊急帝王切開で長男が誕生しました。
長男は、産声をあげたものの衰弱が激しく、誕生後すぐにNICUに搬送されました。
人工呼吸器を挿管され、両手足に点滴・輸血をされ、動かす事もできない状態が続きました。
「温かい長男に触れられるのは今日が最後かもしれない」と思いながらの面会が続きましたが、長男は脳にダメージを負いながらも生き残りました。

「うまれる」ということ、「生きる」ということ。
長男の「生きる」ことに全精力をかけた静かな戦いを見守りながら、改めて考えさせられました。

長男だけでなく、障害を負いながらも「生きる」とこを選んだ子供がたくさんいること。
その子供達の命に向き合う人がたくさんいること。
医療や福祉の助けがなければ生きられない人達のこと。
多くの人に知ってもらいたいと思います。

2009.11.28 投稿者:ママちゃん

私は来月に1歳になる息子を持つ父親です。
私たち夫婦は、部署は異なりますが夫婦で看護師をしており、目の前では毎日生と死の世界と隣り合わせの人たちを相手に仕事をしていました。妻は看護師を辞め、今は専業主婦をしています。
妻は産科病棟で働き、私は脳神経外科です。妻は毎日のように出産に立会う事ができていたのですが、私は目の前で亡くなる患者を目にすることがほとんどでした。
そして、そんな状況の中、妻の出産に立ち会ったとき、私は今までどこかで感じていた異様な雰囲気を感じました。それは、患者が亡くなるときと全く同じ空気を肌で感じました。
人が亡くなるとき、私は言葉の要らない異様な世界とのつながりを感じます。それが天国か否かはよくわかりませんが、真っ白な世界とのつながりを肌で感じます。息子が妻の身体から産声をあげて現れたとき、人が亡くなる空気を感じ、鳥肌が立ったのを今でも鮮明に覚えています。
息子は大きな病気もせず、今も元気にすくすくと成長しています。産まれる事と、亡くなる事、とても遠い存在のようで、非常に近く似たような事象であると思います。
現実的に捉えようとすると同類にはできませんが、私が出産に立ち会った時に肌で感じた異様な感覚は、忘れることができません。

2009.11.28 投稿者:haruki papa

私は第1子の娘を35週で死産しました。
いつも元気よく動いていたお腹が静かになり・・・受診すると心臓が止まっていました。
その日はなんとパパの誕生日。そしてクリスマス・イヴに死産。病室で家族3人揃っての最初で最後のクリスマスパーティーを開きました。娘は死んでいたけど生きていた。私たち夫婦にとって一生忘れられないクリスマスでした。その日からそろそろ1年が立とうとしていますが、今私は9か月の妊婦さんです。1年前の事が不安をよぎります。でもそれ以上に楽しみでもあります。少し前おなかの子が夢にでてきたのです。「パパの誕生日に無事に産まれて来てね。」と私が話すと笑顔で「わかった。」と答えている夢でした。その夢に勇気をもらいました。来月その夢が実現する事を楽しみに、子供・そして普通に産まれるという奇跡を信じて待ちたいと思います。

2009.11.14 投稿者:かぁちゃん

 
 今年の5月26日に待望の第一子長男優健を誕生死しました。

 妊娠経過は妊娠悪阻がひどく、結局後期まで入院を繰り返し、悪阻が原因でそれまで順調

 に育っていたのに母体の栄養状態が悪く8ヵ月目にして発育不全でまた入院。治療は母体に栄養を与え
 
 安静に過ごしました。すると優健はみるみる成長してくれました。このときは私が具合悪いだけならな

 らば我慢できたのに、それが原因で優にまでこんな目にあわせてしまったと、本当に申し訳なく思いま
 
 した。

 予定日も過ぎ、毎日元気にお腹を蹴るわが子がとっても愛おしくて毎日ビデオを撮ったり家族みんなで

 話かけるのが日課になってました。40週6日。この日午後から健診でしたが明け方起きて胎動が無い事

 に気づきそのまま病院へ。助産師さんがいくら探しても心音が録れず医者2人でモニターを確認し告げ

 られました。声を張り上げたかったけど、声を出すと現実になってしまう気がして怖くてうなずくしか

 できなかった。
 
 病院では本当に皆さんがとても親切にして下さいました。出産は当初の希望通り、主人と母、それと

 休み返上で駆けつけてきてくれた担当の助産師さんと健診でお世話になっていた女医さんでゆっくりと

 やさしい時の中で出産しました。普通のお産の様に、へその緒を切ってすぐに私の胸に乗せてくれまし

 た。胎盤が出るまでしばらくそのままで、それから夫婦で沐浴しベビードレスに着替えさせてから、

 親戚にお披露目しました。皆事情はわかった上で「かわいいー」「おめでとう」やどっちに似てるや

 写真撮影手形足型や夜には病室でお誕生日会もしました。助産師さん達や先生も代わる代わる会いに

 来てくれてとても嬉しかったです。2泊3日の入院は夫も付き添い、優健と一時も離れること無く、

 親子3人の貴重な幸せな時間を過ごす事が出来ました。

 息子はパパ似のとっても可愛いやんちゃな顔で、手も足も体の隅々まで立派な赤ちゃんでした。

 あのここち良い重さは一生忘れません。ずっしりとした幸せの、優ちゃんのおもさ。

 沢山の思い出を残す事が出来ました。それは支えて下さった皆様の協力なしにはありえません。

 優健はたくさんの事を教えてくれました。そして私は日々感謝しながら、優健のお骨に話かけたり

 だっこしたりしています。

 この映画は行き場のない私の支えとなっているブログ『TUBAKI』から知ることができました。

 この世に生をうけ誕生する。誕生の形も色々あり、私達の様な誕生死も出産だと言っていただき

 本当に救われます。出産はもちろん素晴らしくうれしいこと。でもその陰でこのような事も起こり

 うるという事を皆様にも知って欲しいと思います。当たり前ではなく、奇跡だということを。

 
 この映画とてもとても楽しみにしています。今から待ち遠しいです。

 長くなってしまい申し訳ありませんでした。

 最後まで読んで頂きありがとうございました。

2009.11.11 投稿者:ゆうけん♡ママ

現在、もうすぐ二歳になる元気な息子と楽しく生活している主婦です。
そして私には天使が二人、空に居ます。

最初の子は初期にて流産。性別はわかりませんでした。
それから三年経ち待ちに待った我が子を授かり、辛いつわりにも点滴を受けながら耐えました。
お腹も膨らみ、元気な胎動も感じその日の検診では性別が聞けると楽しみに受診しました。
が……知らされたのは性別ではなく重い病気でした。
「致死性骨形成不全」何万人に一人という、骨の病気です。
我が子の場合、胸郭の骨が成長できず肺が形成されていませんでした。
お腹の中では胎盤から酸素が届き、元気に動きます。しかし、自発呼吸は望めず生まれたら生きられない。
その時すでに妊娠7ヶ月、妊娠を継続することは可能でも大きくなれば子供も苦しむかもしれない、そして母体にも負担がかかる…
夫婦で泣きながら何日もかけて出した結論は「人工死産」でした。

辛い辛い処置に薬で急激に起こした陣痛…頑張ってって言われても我が子とのお別れしかないのに何を頑張ればいいのか……この子と一緒に死にたい…何度も思いました。
産声も無い、おめでとうの声も無い…そんな分娩室で静かに生まれたのは小さい可愛らしい娘でした。
私のお腹から出るその瞬間まで動いていたあの感覚は今でも忘れられません。
120%生きられないと言われた娘、それでもあと三ヶ月私が頑張ればもしかした生きられた?
そんな懺悔とも後悔とも言えない気持ちは一生消えることはないことと思います。

こんなに悲しい想いをするのなら子供はもう生まない…病気を知らされた時はそう思いました。
でも、眠っているかのような穏やかな可愛い娘の顔を見たら、やっぱり子供が欲しいと強く思い次の妊娠に踏みきりました。
10ヶ月の妊娠期間、不安だらけでしたが元気な息子が無事誕生した時は家族全員涙が止まりませんでした。
授かることも、妊娠の継続も、そして生きて生まれてきてくれることもたくさんの奇跡の積み重ねなんだと思っています。

息子の成長を微笑ましく嬉しく感じながら、あの子が生きていたらどんな女の子になっていただろうと毎日思います。回数は減りましたが今でも涙が出る時があります。
今は小さな仏壇にちょこんと座り、やんちゃな弟の成長を見守ってくれています。

母として何もしてあげられませんでしたが、二人の子にはたくさんの大切な事を教わりました。
あの子達に心配かけないよう、毎日頑張って生きています。

映画、楽しみにしております。

2009.11.10 投稿者:千春ママ

今年4月、愛しい我が子と死産という形で出会いました。
不妊治療の末に授かった待望の双子の娘達です。
出産後、池川先生の本にとてもとても助けられました。
お陰様でどんな形であれ、出会うことができて良かったと
思えるようになりました。大勢の方に見てもらい、少しでも
理解が深まり、辛い思いをする人が少なくなれば・・・と
思います。

2009.11.09 投稿者:あき

今年24才で、第1子の娘を今年の10月1日に自宅にて無介助出産をしました。
その時の日記です。

9月31日(水)
この日は、昼間に散歩した後、怪しげなカレーを作って食べて、お風呂で半身浴して、他の日となんだ変わらない生活してました

その日の20時過ぎ頃にお風呂から出ると、どうも腰が重だるい

カレーがあたったのか、腰が冷えたのか(;´д`)旦那様が帰ってきたので"テルミーやってほしいなぁ~"って思いながら、腰が重だるい事を話すと「なんでだろうね~」って言って、いつもならマッサージだったりテルミーだったり何か処置をしてくれるのに、ちょうどこの日はお疲れだったのか、何もしてもらえず

しょうがないので、旦那様が横になってる隣で自分でテルミーをして足腰を温めてみた(今思えば旦那様はこれからの出産の為に体力温存してたのかな)
この時既に腰の重みはきたり落ち着いたり波がきてた。

"これが噂の前駆陣痛ってやつなのかしら"と思いつつ、体力つけとかなきゃと思いとりあえず寝よ~って布団にはいるんだけど、痛みの波がくるととても寝てられない

とりあえず痛み対策でレッグウォーマーをプラスにはいて、足のツボの部分と骨盤まわりにホッカイロを貼ってみる。

そんなこんなで日付がかわり10月1日(木)の夜中の1時頃トイレに行くとおりものが赤い
"これって噂のおしるしってやつだ"
旦那様にとりあえず報告。

私「でもこれからどれくらいかかるかわかんないしねぇ」って言って、旦那様は寝かしておく
初産だし、明日の昼間とか夕方になるかもやし、旦那様もお疲れな様子やったし、明日の朝一に往診に行くって言ってたなぁ~

もうちょい様子をみるかぁって変な気遣いをし、陣痛らしきものの時間感覚をはかってみたら、7~8分間隔
出産間近なのか一応出産準備をしておこうかなぁ

立ち会う予定の義妹さん(モリゾーさん)と実母(バァバ)にはいつ連絡したらいいんやろ今夜中やしなぁ~
………。って思いが横切りましたが、ビビリの私はまぁもうちょい様子をみよって準備を一人で黙々と始める。

イメトレだけは充分にやってたので、やらなきゃいけない事はだいたい頭に入ってた
お湯を沸かして湯タンポ作って、水分補給用のお茶をたっぷり沸かして、水中で産みたくなった時用に、お風呂を念入りに掃除して、あっつあつのお湯を入れる(塩素を抜く為に早めに入れとく必要があったため)。

そこに塩500グラムぐらいをどさーっと入れてお風呂用の石も入れてレモン汁も事前に調べてこれは入れておこうと思ってたもの達を入れた。

ペットボトルにお茶を入れて、温度調節用のお湯も水筒に入れて、タオルも移動させて、ラベンダーのアロマキャンドル(産む力が促進されるらしいけど実際よくわからんかった)設置して水中出産の準備だいたい完了
次は陸で産みたくなった時用の準備や

寝室にもたれかける用のソファーを移動させて、レジャーシートに防水シート、タオルをセットして陸(?)での出産準備もだいたいオッケー

これでどっちで産みたくなってもオッケーやその時産みたいと思った方に行こう(^-^)
ジッとしてるのもえらかった為、陣痛の波をたえながら一人で黙々と準備を続けてたら、気が付いたら朝の5時を回ってるやん( ̄▽ ̄;)って初めて気付く(;´д`)

今日は完徹で出産を迎えるのかてかそろそろ旦那様を起こした方がよくないって思っていたら、旦那様がフラりとトイレに起き上がってきた


私「おはよぉ~私、陣痛きてるかも~」

旦那「えっヽ(・_・;)ノ何分間隔」

私「………。わからん」

旦那「(゜Д゜;;)」


だって、準備で動いてたから、メモする余裕も時計を見る余裕もなかったんだもん
7~8分間隔よりは短くなってると思うけど
その時計ってみると4~5間隔。

旦那様は急いでモリゾーさんとバァバに連絡(バァバは出なかったのでまた後でかけなおす)
バァバは車でも2~3時間かかるけど、モリゾーさんは家が近いので5時半頃には家に到着
カメラマンと時間の記録とお湯沸かし係をお願いした

この時はまだ陣痛じゃない時はしゃべる余裕有りいよいよだね~って話しながら、旦那様にテルミーをしてもらう陣痛がくるとしゃべれなくなり「腰を押して~」ってなったので、押してもらう

旦那様は鍼灸あんま師なので、こちらの「ここ押して~」って所を的確に押してくれる"旦那様がこの職業でよかったぁ~"

陣痛がくるたびに腰を押してもらっていると、こちらの"押して欲しい"と思う腰の位置がどんどん下に下がってくる

前にお産塾で押して欲しい場所っていうのは赤ちゃんの頭の位置なんだと教えてもらっていて、「かなり下がってきてるよ」って旦那様が教えてくれた

「このままココ(寝室)で産む」と聞かれ、"陸か水中か"一瞬迷い、この陣痛が楽になるのならとお風呂に行く事に(せっかく準備したしね)
それが大体6時頃。

お風呂に入ると痛みがふわ~と楽になり、余裕がまた出てくる
産む時と産後は私と赤ちゃんの目を守るため、灯りはキャンドルの灯りと小さい北側の窓から入る自然光のみ

薄暗いお風呂場の中で、また陣痛の波をやり過ごす。
その内にまた陣痛に耐えれなくなり仙骨(おしりの骨)を旦那様に押してもらうが、旦那様いわく、私の押して欲しいという場所は仙骨よりも下だという。

その内押してもらうよりも何か握りたくなり旦那様の腕をガッチリつかんで痛みに耐えるように(旦那様も耐えてましたが(笑))

ここまでくると、本当に世の中の"母"ってスゲーこれが何時間も何日もかかる人がいるのかぁ耐えられ~ん母ちゃんスゲーよまじ産んでくれてありがとぉ

りきんだら会陰が切れるって聞いたから出来るだけイキまず、呼吸を出来るだけゆっくりするよう頑張る

陣痛の合間に興味本意で穴に指を入れてみるが頭らしき物はさわれずまだ時間かかるんかなぁ~って思ったけど、

産道に何か降りてくるのを感じた時、ちょっとイキんでみよってイキむと赤ちゃんの頭が出口に向かっていくのがわかり"あともうちょいや"とも思ったり、
どうも、水中の浮力のせいで下がりにくくなってる気がすると思い一度立ってみる。

[ズン]と下がるのを感じると同時にまた痛みを逃したくなり、しゃがみこんで水中に戻る( ̄▽ ̄;)
最初はその時にとりたい姿勢で産もうと思ってたけど、もぉどの姿勢になっても痛いもんは痛い

狭い浴室の中で立て膝になるとちょうど膝と足の指が固定されて力が入りやすいという事を思いだし(前に半身浴中にいろんな姿勢を試してた)立て膝体勢になる。

もぉ余裕のよの字もなくなり、息も荒くなってきて、旦那様に「ゆっくり呼吸しようか」てか「声を出してもいいんだよ」と言われて呼吸を整えたり、外の明かりが明るくなってきたのもわかり、"早朝からご近所の方々すみませ~ん"と思いながらも「あ゛ーーー」「ん~~~~」と声をあげてみる

産む前は「チホのタイミングで出てきたらいいよ~」って話し掛けてたのに、この時にはもぉ「お願い早く出てきてぇ~」ってお願いしてたり( ̄▽ ̄;)

徐々にチホが降りてくるのがわかってきて、イキむと出口に近づいて、休憩すると奥に戻っていく

チホも頑張ってるんやと思って、思わずチホに「頑張れ~頑張れ~」って応援
そしたら、その場にいた旦那様とモリゾーさんも「がんばれ~がんばれ~」って応援してくれて それからちょっとすると、”パンッ”という音がして(たぶん破水)

さらに荒くなる私の呼吸「ハッハッハッハッハッ」
旦那様に「呼吸ゆっくりにしようか」とアドバイスしてくれるも、"今は無理”って思ったら

私「頭出た」

旦那様とモリゾーさんはもっと時間がかかると思ってたらしく少しワタワタしているのがわかる。

私の股の下では赤ちゃんの頭だけが水中に出ているのいう実際に見たらかなりへんてこな図なんだろうけど風呂が狭い&暗い&私の体の向き的に誰も見れなかったのは残念。。(笑)

私の左おしりに赤ちゃんの後頭部の髪の毛がふわふわとあたってる。
"頭さえ出ちゃえばこっちのもんや"
次かその次くらいのイキみで”すっぽーん”

お風呂の中に産み落とし、旦那様が水の中からひろいあげる
うつぶせにして、羊水とお風呂の水を吐き出させてすぐに「おぎゃーおぎゃー」と泣き出す我が子

無事、元気な赤ちゃんが出てきてくれました
「チホ、無事に出てきてくれてありがとう」"私と旦那様との間に来てくれてありがとう""お腹にチホが来てから10ヶ月。早く会いたくて会いたくてしかたがなかった"

思わずギュッと抱きしめて、旦那様も「よくがんばったね、ありがとう」って頭をなでなでしてくれました

本当は、お産って何が起こるかわからないから、準備はがんばるけど、もしも何かあった時は自己責任だと思っていたから、もしかしたら、出血多量で命が危ない事があるかもしれない。

もし何かあったら・・・。
って思って遺書みたいな手紙でも旦那様と親に書いておこうかな…。って思った時期も妊娠中ありました。

でも、もし自分が死んだら。。。って考えたら残された旦那様はどうなってしまうんだろう。。親より先になんて親不孝すぎる・・・。死んではられないな。。。って手紙を書くのはやめました。

だから余計、お腹の中で動いてた赤ちゃんが今こうして目の前で元気でいてくれる。。。本当によかったぁ~幸せ者だなぁって。

で、ふと気がつく。。。
めっちゃ泣いとるやん

自然出産だと1~2回ぐらい泣いたら泣きやんで、きょとって周りを見渡すとか、おっぱいに吸い付くとか、目が合うとか聞いてたんだけど…。
めっちゃ泣き続けてるようちの子(笑)

モリゾーさんに「性別は?!」って聞かれて、そういえば・・・。と見てみると、「無い!!!」やっぱり女の子 で、チホが出てきてから数分もしないうちに胎盤が"でろっ"と登場はやっって思ったら、出たのは2/3はぐらいで、全部はできってない感じ

その後、陣痛も無いし、なかなか出てこない胎盤は無理に引っ張って出そうとすると出血が多くなる場合があるので、自然に残りが出るまでそのまま待機する事に・・・。

その間、チホと見つめあいたくて、何度かトライしてみるも、どーも目が合わないてか、左右の目が違う方をむいてません??と思ったら、『産まれてすぐの赤ちゃんは左右の目で一つの物をみるという事がまだわからなくて、左右別の動きをする事があるが、そのうちにちゃんとした目の動きになるから最初びっくりする人も多いが大丈夫』って本に書いてありましたびっくりしたぁ~

で、初おっぱいにもチャレンジ(おっぱいを吸ってもらう事で子宮の収縮が促進されて胎盤も出やすくなるらしい)

なかなか吸おうとしないので、半分無理やりな感じでしたが…。
おっぱいを吸ってる赤ちゃんを見て、これがお腹に入ってたんだよなぁ~って
太くて黒いへその緒を触ると”とくとく”って脈をうってるのがわかる
これが、私の胎盤と赤ちゃんをつないでてくれてたんだ~まだ生きてる感じ。。

確かに脈をうってる間はへその緒切れないかも
家族が3人になって、幸せなひと時
丁度旦那様の休みの日に、出生一時金の金額がUPしたその日に、破水はお風呂でしてねっていうお願い通りに出てきてくれました

なんていい子なんでしょう
旦那様はとりあえず、お互いの両親に報告。
そうしてる間に実母(ばぁば)ともう一人の義妹到着

みんなに旦那似だね~といわれる
しかし、よく泣く我が子
9時頃になっても取れない胎盤

お産塾でお世話になった助産師さんに聞いてみようにも、まだお留守の様子。
一度お風呂から出てみるか~って立った瞬間
"でろん"ってきれいに胎盤が出てきました
立てばよかったんや~

産まれた赤ちゃんとへその緒と胎盤は桶に入れて繋がったまま寝室へ移動
私は一人着替えて寝室へ。。(体力的にまだ平気な感じ)
悪露対策のため、ソファーに寄りかかって座り、旦那様に「体調はどお??」と聞かれ、率直な私の意見「お腹減った」

だって、お腹に詰まってたものが空っぽになったんだもん!!
その後完徹なのに興奮してるのか眠る事無く。

実父が仕事を休んでまで家にきたり(笑)、お互いの家族だけがいるのんびりな時間
(この時もよく泣く我が子(笑))今思うとへその緒や胎盤に刺激がいくと泣いてたような。

つながってるんやね~

11時頃になってようやくへその緒も真っ白になってへろへろになり、脈も収まってきて、旦那様がローストビーフ用のたこ糸でへその緒を縛り、キッチンバサミ(たしか、消毒してなかったような…。)で切ってくれました

そしたら、それまでぎゃんぎゃん泣いてた赤ちゃんがスッと泣き止んでぐっすり寝始めた
旦那様と義妹さんはその間に胎盤を処理する事に。。

そぉ胎盤を食べる為に

胎盤ってとっても栄養豊富で動物とかは自分の胎盤は食べているらしい。
その日の内に刺身と後日に醤油漬けにしたのと野菜と炒めて頂きました
刺身はユッケのような、砂肝の生状態のような感じで臭味とかはなく、

”肉”って感じで意外に食べれました

火を通すとレバーと砂肝を足して割った感じで内臓系の肉だよねってこれまた普通に食べれました
私は食べただけだけど、処理中はかなりグロかったらしい・・・。(笑)

そして昼の11時頃に寝始めたチホちゃん。
次に起きたのは夜の20時・・・。
約9時間、寝続けました(ー□ー;)

赤ちゃんは3日分の弁当を持ってきてるっていうから心配はしないけど・・・。私は前日の朝からその間もずっと起きてましたが(汗)(約36時間ぐらい)

これからもこれくらい寝ててくれたら楽チンだなぁ~って思ったりするのですが・・・。
大変なのはこれからでした・・・・。

読みにくい日記でごめんなさい。

映画楽しみにしてます。

2009.10.31 投稿者:モッティ

妊娠5ヶ月の頃、死産を経験しました。
お腹の中にいるときから、障害を告知されており、それでも産みたい!と決めていた矢先にお腹の中でなくなってしまいました。
もうすぐ、胎動…と楽しみにする反面、聞こえないことの不安も大きかった…。
なんとなく予感していたことでもありました。
障害に決心が揺らぎ、羊水検査などしたことが原因だったのでは…と自分達を責めたりもしました。

なくなっていると分かっていながら陣痛促進剤でした産声のない出産。
我が子に会えることを楽しみに痛みにたえ、うれし涙を流した上の子の出産とは違い、悲しみの涙を流しながら、お別れを予感しながらのとても悲しい出産でした。
それでも、パパに立ち会ってもらい、また、「早くママとパパに会いたかったんだよね」と励ましてくれた助産師さんの言葉にすごく救われました。いろんな人の支えで、なくなってはいたけれど、母としてがんばって世の中に産んであげることができました。
また、自分で出産した、なくなった赤ちゃんをしっかり抱っこし、火葬の日までずっと一緒に過ごせたことで気持ちの整理ができました。

私には上の子がいたから、まだ悲しみも癒されやすかったのかもしれません。
運命的にもすぐに、なくなった子を出産した日と同じ出産予定日の子を妊娠しました。
また、同じようにお腹の中でなくなってしまったら…ずっと不安はつきまとっていました。
でも、同じ予定日の赤ちゃんはなくなったこの生まれ変わりのようにも思え、絶対大丈夫という安心感も一方でありました。

陣痛促進剤を使った前回の出産にトラウマもあり、今度は自然な出産をしたい!との思いから、助産院を選び、予定日の2日前の今年の5月18日に無事に男の子を出産することができました。
一週間前から子宮口が7㎝くらいひらいているにも関わらず、陣痛がこなかった。でも、きっと運命の日まで赤ちゃんが待っているのだと信じて入院することもなく過ごしました。そうさせてくれた助産師さんにも感謝しています。
結局、運命の日より2日早かったのだけれど、陣痛から30分という超安産の出産になりました。
きっと、なくなった赤ちゃんが見守っていてくれたからだと思っています。
助産院での出産は、畳の上で、助産師さんとパパに見守られ、本当に穏やかで自然なな出産で、日常の一こまのようでした。

生まれ変わりではないかもしれないけれど、なくなった赤ちゃんのエネルギーのようなものを次男からはよく感じています。
命って不思議で、尊いものですね。
運命的なものも大きいように感じます。

最後に、
私は過去3回の妊娠記録、出産記録を日記につけています。(私の母も同じようにして私に結婚するときプレゼントしてくれました)
もし、その記録等、協力できることがあれば、させていただきたいです。
3歳の息子もいますので、胎内記憶のエントリーもさせていただきます。

それでは長くなりましたが、映画、楽しみにしています。


2009.10.21 投稿者:あん

はじめまして、約4年前妊娠18週で男の子を流産しました。
今までで流産は3回経験しました。
やっと授かった命、でも、流れてしまう現実。
今でも諦めてるわけではないけど、もういいかな?諦めようかといつも考えてしまいます。
病院の先生にも原因がわからないとも言われ、精神的に疲れてしまうときもあります。
周りから{子供はまだ?」「またすぐできる」とか言われたりするたびに
そっとして欲しいともおもいます、
きっと私のような思いをされてる方はたくさんいるとおもいます。
そろそろ年齢的に高齢出産年齢になります。
これから先又、子供を授かれたら、今度こそと。

2009.10.20 投稿者:ゆう

はじめまして。
私は「不妊」です。
30台で、2回初期流産を経験しました。
その時は、「まだ5週位だから、病院に行っても、胎児が見えないと」思っていました。
夜勤中(実は助産師です) お腹の痛みと出血で
「あぁ、流産だな・・」と思いました。

40台入ってすぐ、不妊クリニックに行きました。
Drからは、左の卵巣膿腫で 早くに体外受精を勧められました。
私は、事情があって、もぅ5年も彼とは住んでいますが、事実婚ではありません。
カルテに「未婚」と 大きく書かれたあったり。
不規則な勤務で、タイミングを取れないと「本当に妊娠したいの?」といわれたり。
内診台に乗って待っていると、お隣の方は双子の妊娠で「順調よ」と聞こえてきたり・・・
その後、双子のママには きちんとしたテーブルで お産が出来る病院への紹介状の案内を受けていました。
私は、同じお部屋の 片すみも呼ばれて「精液検査」の説明を聞きながら・・
あまりにも 扱いが違うことで ショックで それ以降受診していません。

池川先生の著書で
「産れない人には、何かの使命があって妊娠しないことがある」
その一言に 心穏やかに 今は「助産師の00です」ということが出来るようになりました。

不妊は病気ではない。
「個性」という言葉に、助産師を続けていく勇気をいただきました。
ありがとうございます。

2009.10.20 投稿者:mayu

私は、現在二児の母親です。
上の娘は現在小学校一年生の7歳。
体内記憶とまではいきませんが娘には妊娠したときから決めていた名前がありました。
少し変わった名前で私の両親は大反対!!出産するまで頑固として変えなさいと言われ続けてきました。
しかし、出産してみると分娩台でかわいいわが子とご対面をし私の母が見ている前でその名前を呼ぶと手をあげるではないでしょうか?
勘違い??と思いましたが何回呼んでも手をあげるのです。それを見ていた母は「この子がそう思っているのなら…。」とあきらめました。
そして、下の息子は現在一歳です。
実は、その子との間に今生きていれば3歳になる子供がいます。
妊娠10週、産婦人科の先生から「エコーの検査で首の後ろに水がたまっているからもしかしたら先天性異常があるかもしれない。」
と言われました。
中絶するにもぎりぎりのタイミング。私は泣きながら病院から帰り主人と相談をしました。
あらゆることを主人と話し合いなくなく悲しいお別れをすることになりました。
羊水検査やいろんなことを考えましたが、私は上の娘を産んださいにあることがきっかけでパニック発作をもっていたので今お別れするのがという結論になりました。
中絶をし、あらゆることを考えました。
なぜ、私なのか?なぜ、自分は生かされているのか?など・・・。
そして、その後自分の出産やいろんな経験を生かし妊婦さんの何かお役に立てないかと思い「マタニティーエステ」の資格を取りに学校に通い現在、家でサロンを開いています。以前、池川先生の体内記憶の講演会にも参加させていただきました。
自分がその子の命を絶ったということはかけがいのない事実です。
今は、妊婦さんの体を癒しながら赤ちゃんが無事に生まれることを願うばかりです。

2009.10.06 投稿者:ちゅらさん

去年の10月に男の子を出産しました。
初めて自分のお腹の中に命が宿っていると知ったときから、10か月。
よく頑張ったねっ!!パパとママの所へ来てくれてありがとう。
そぅ手術台で声をかけた事を昨日の事のように思い出します。
「おめでとうございます、妊娠してますね~」と先生から言われるのと同時に…
「黒い影のような物が2つ見えるんだけど・・・」
そぅ、子宮筋腫だったんです。
赤ちゃんは順調に育つのと同時に筋腫も大きくなり、一つは子宮の裏…結局赤ちゃんが大きくなるにつれ見えなくなり、もぅ一つは産道近くという、自然分娩が出来るかどうか微妙な状態でした。
私は…どちらでも良い、ただ元気に生まれてきさえしてくれればっ!!と。
でも、お腹を切る不安から出来たら自然が良いなぁ~と。。。
予定日は私と同じ誕生日。なんと偶然なっ!!同じ日に生まれてきてくれたら…
と思いつつも、陣痛の気配なく…10日後入院決定。
促進剤で陣痛を起こすも、どうも産道付近にある筋腫が邪魔をして頭が下りてこない。。。
そっかぁ!!だから、みんな臨月近くになるとお腹が下がる、頭が下がるって言ってたけど、
私の場合は…私の筋腫のせいで下りれなかったんだ…
ごめんね、ごめんね、苦しいね、早くお外に出たいね…
促進剤打ちながら、そんな気持ちばかりでいっぱいでした。
結局、初日の促進剤でも陣痛が来ず、2日にかけての促進剤。
それでも陣痛は来ず…。
10日も遅れてるのに…という焦りと頭さえ筋腫を避けてくれたら自然分娩でいけるのに…
という思いと、私の体は既に2日間の促進剤でボロボロでした。
そんな矢先、赤ちゃんの心音が下がったとのこと。
もぅ…限界でした。
「これだけ頑張ったんだもん。自然も帝王切開も関係ないよ。筋腫がどうも邪魔してて頭が出てこない。
僕たちも君が頑張ってる姿をみて、なんとか自然で産ませてあげたかったけどよく頑張ったよ。もぅ帝王切開で早くお外に出してあげよう。」と先生の言葉。
今まで張りつめてたものが一気にはじけ、、、それからは即帝王切開の準備へ。
バタバタと周りが動く中…私のベッドは茫然と手術室へ。
2日間頑張った分のいろんな思いやらで、麻酔しても麻酔も効かず。
2度の麻酔…その不安から過呼吸へ。。。
が、大学病院という事もあって、たくさんの先生と看護師さん、助産師さんがずっと声を掛けて下さり、、ちょうど実習でついてた学生さんもずっと手を握ってくれてて…
もぅ涙涙涙・・・
お腹がぐぅぅ~んっっ、引っ張られる~!!
そぅ感じた瞬間、
「おぎゃーっ!!」「おめでとうっ!!元気な男の子だね~っ!!」
幸い下半身麻酔で済んだおかげで意識はあったので、
すぐ顔の傍に我が子を見ることが出来ました。
「やっと会えたね。パパとママのところに来てくれてありがとう」
そう我が子に声をかけた思いと同時に、
たくさんの周囲の方への感謝の思いでいっぱいでした。
無事に元気で産まれてきてくれて本当にありがとう。
どんな出産であれ、決して一人で産むんじゃない、たくさんの方の力を借りて産まれる。
本当に言葉では言い表せない程、出産に携わった方への感謝の気持ちでいっぱいです。

私には本当だったら兄弟がいたかもしれません。
この世に産まれることの出来なかった兄弟が2人。
母の2度の流産という話を物心ついた頃から知っていたので
私は常に3人兄弟だ、という思いが今でもあります。
だからこそ、、、
元気に無事にこの世に生まれてきた事に…ただ感謝あるのみ。
もし、兄弟がこの世に居たら…
我が子みたいな顔なのかなぁ~
なんて母と話す…そんな母の姿を見ると、どんなに辛かっただろうと。

お母さん、私を産んでくれてありがとう。
私はお母さんの娘としてこの世に生を受けた事、感謝しています。
そして我が息子よっ!!私のお腹に来てくれてありがとう。
君が話せるようになったら、是非お腹に居た時の事を話して頂戴ね。
君が話せる事が待ち遠しい限りです。

こんな素敵なドキュメンタリー映画。
来年だったら…我が子連れて観に行けるかなぁ。
是非是非楽しみにしていますっ!!


2009.10.02 投稿者:オパール

胎児に肋骨を折られましたΣ(゜▼゜;|||)

妊娠7ヵ月頃からなんとなく胸の下辺りが痛みだし、8ヶ月検診時先生に伝えると・・・肋骨かっ?!とにかく現状はX線も使えないのではっきり言えんが、多分肋骨にひびが入ったか骨のなんらかの痛みでしょう...。

よっぽど足の力が強い赤ちゃんなんですね~。いずれにしてもこの状態では普通出産は無理なので「予定日帝王切開」にしましょう!!という事で、2ヵ月後のに向け安静を強いられました。

が・・・予定より1ヶ月早い朝8時頃陣痛が!!やっば~い...急いで病院へ・・・(゜m゜;)しかし。。。この日に限って手術室がパンパン!!お昼の合間にねじ込みましょう。

それまでにとりあえず診察→検診→レントゲン→やはり『骨軟骨骨折』判明し...剃毛→・・・付き添いの主人と娘に結果を伝え、手術までお昼を済ますよう話し、お腹と肋骨痛みに耐えながら麻酔科の先生による麻酔の説明と診断を受け時間に合わせて麻酔をし待機のはずだった...。

がっ!?麻酔科の先生...経験豊富な方で、話の最中私の様子を見るなり『婦長!!!』と叫び、慌てて飛んできた婦長へ『内診して!!』・・・・・・Σ(゜▼゜;|||)

あっ!まずい...(゜m゜;)みたいな事を口走り私に早くパンツはいて!!と婦長さん。「ってオイ!...痛いし...もう体動かせないです...」なおも...『内山さんゴメンナサイね~頭!出てますから、手伝います頑張ってはきましょうねーー』
その優しい言葉とは裏腹に内線ボタンを叩き『ストレッチャー!!』・・・・・
Σ( ̄◇ ̄*)

何事~~~パンツって?!赤ちゃんの頭をパンツで押さえてるってことな訳~~(-_-;)どうなってんだー帝王切開じゃなかったのかよ!私と赤ちゃんこのままどうなっちゃうんだーー...頭真っ白な中看護婦さん達がストレッチャーをダッシュで運びいれ、『内山さん移動しますよ~~1・2の3!』

はっ??どこへー?優しい言葉と行動の迫力さがあまりにミスマッチで怖いんですけど・・・・(/=\)で・・・当時最先端のLDR室(陣痛待機・出産・産後をTV見たりバランスボールがあったりと、自宅の様にリラックスした状態で迎えられる個室)へ移され即分娩台へ!『先生もう直ぐ来ますよ~イキミたければもういきんでいいですよー!』って、、、きゃーマジで~~?

下から産むんかい(ノ`△´)ノ 私の肋骨どうなっちゃうのよーーあっ!!でも今出さなきゃ私壊れちゃう・・・( ̄◇ ̄*)周りもなんだかパニクってる??そう思った瞬間、何だか気が座ってきて落ち着きを取り戻し、私が頑張んなくっちゃ!!よ~し!!!そこへ白衣を着る暇が無かったのか、そのまま飛び込んできた先生!!

『内山さん!いいよ!大丈夫!自分のタイミングで力入れていいよー』って・・・ 分娩監視モニターも付けてねーし、この部屋何人いるんだ??あっ!!主人に電話してくれたのかしら?そんな事をつぶやきながら・・・

おっ!!!来た来たっ波が来た!大きないきみの波が来た!チャンス!コレを逃したら私の肋骨は粉砕する!!そんな思いで必死にずっと昔の出産を思い出し、この一発に賭けたのです。そう...あの時も大変だった!でもそれに比べれば今回はまだ楽かも!!ヤルしかない!がんばるぞ~~

この状態では誰も私に触れることが出来ず、初めの掛け声の後静寂が...そして大きく息を吸い込み懇親の力を振り絞り集中!先生も看護婦さん達も固唾を呑んで見守る中≪んぎゃ~~≫はぁーーーやった~~乗り切れた!!何はともあれ肋骨粉砕の難をしのげた訳です。あっ!そして元気な男の子赤ちゃん!!

『この子がお母さんに肋骨を蹴ってたのか~~将来はサッカー選手だな!』

無事産めたから皆そんなこと言うけど...私はイテーんだよ!どうすんだ!!こんな調子で育っていったら末恐ろしいって・・・(-_-;)
そう。。。産後は可愛い寝顔に癒され、肋骨の痛さなど吹っ飛び!気が付けば完治していました!めでたしめでたし。

では勿論終わらず・・・
現在確かに凄いキック力を発揮中!? サッカーも習いだしましたが、家族はうっかりくつろげない日々。。。ボーっとしてると側転&蹴りが飛んでくる...また肋骨折られるのでは?と心配な毎日を送っています・・・(≧∀≦)やれやれ...。

・・・そんな息子も現在は小学校1年生。不妊治療の末の死産を経験し、その後1人目の出産も27㎏太ったほど絶対安静が続く大変な出産でした。これまた不妊治療の末の2人目は、コントのような出産。普通の出産ができなかった私の変わった体験談ならお話したいと思います。

2009.08.28 投稿者:はっぴー

あの日から…150日が過ぎました。

2009年2月11日、午前9時34分、3114グラム、女の子誕生。
私の初めての愛しくてたまらない、宝、娘の誕生です。

私の出産は、生と死…いろんなことが起きたビックイベントになりました。

私の妊娠がわかった昨年の夏、
私を娘のように可愛がってくれていた叔父にがんがみつかり、
すぐに闘病スタート。

2008年末には退院し、経過もよかったが…
2009年に入り、体調が悪く、再入院したのが1月の末。

子どものいなかった叔父にとって、私は娘、
産まれてくる子は、孫のような感覚で、
本当に、楽しみにまっていてくれました。

私は臨月に入り、里帰り、
叔父の入院先には、出産まで毎日見舞いに。

叔父は、腹水がたまり、力のない声、顔色も悪く…
出産までもつかな…

本当に、お見舞いのたびに、はやく産まれてきておいで、
叔父が抱きたいってまってるよ、
っとお腹の子に話しかけていました。

出産予定日までは、まだ2週間ある。
まったく産まれる様子もない。

健診の時に先生に相談。
この子を抱かせたいんです。
叔父には時間がありません。
叔父は、ホスピスに入り、治療をストップしていました。

これから産まれよう命と、タイムリミットのせまる命。
複雑な思いで…
先生と私の決断で、陣痛促進剤をつかっての、誘発分娩を行うことに。

幸い、娘はお腹の中で推定体重3500グラムくらいもあり、
誘発して出産しても大丈夫とのこと。

陣痛を待つ間、
この子は空の上から、すべてをわかって私たちのもとに、
やってきてくれたんだろうと。

叔父のがんばりの支えになってくれた、お腹の子。
会いたいと願う叔父を励ましてくれた、お腹の子。
周りの家族の看病で疲れる気持ちを、癒してくれた、お腹の子。

そして、2月11日産まれてきてくれました。
最終的には、帝王切開になり、無事に元気な女の子の誕生でした。

すぐに母から叔父には電話で産まれたことが伝えられ、
写真も見せにいきました。
次の日、2月12日午前中に、外出許可を得て、
叔父も産婦人科に私と娘に会いに来ることになっていました。


しかし。。。朝から変な胸騒ぎ。
母に連絡をとるも、つながらず…

叔父は、2月12日の朝方、天国に旅立ちました。

叔父は安心した、と言ったそうです。

私が無事に出産するのを待っててくれた叔父。

抱かせてあげることはできなかったけど、
この子は叔父によって一生守られ、
この子がいるから、みんな癒され、
悲しみを乗り越えることができました。


この子が産まれて150日、
叔父が亡くなり150日。
すべてをわかって、私たちのところへやってきてくれた娘に、
感謝したいと思います。


娘は叔父に目が似ています☆


長文失礼いたしました。

2009.07.13 投稿者:NAKOまま

妊娠前に子宮筋腫の手術をしていて、出産は帝王切開と決まっていた私の妊娠はずっと順調でした。

けれど妊娠8ヶ月の時、羊水過多で大学病院に転院。そこで待っていたのは我が子が18トリソミーという診断
医師から「お腹の中で亡くなることがほとんどで、産まれて来ても1年もたない」と宣告。

まだ産まれて来てないのに、どうして死を覚悟しなければならないのか。我が子に申し訳なくて、毎日泣きました。

私が泣くと必ず「私はまだこんなに元気なんだから、ママ泣かないで」と言わんばかりにお腹を蹴ってくれました。
一番辛いのはこの子。一番頑張ってるのもこの子。

この子との別れは今日かもしれない、明日かもしれない。いつか来る別れの時まで精一杯お母さんをしてあげる
そう誓って、毎日お腹の子と思い出を作りました。

予定日1ヶ月前には、羊水過多が原因で切迫早産。そして入院
退院して4日後におしるしがあって高所破水。

すぐに入院して手術の準備をしていると陣痛が3分間隔になり急いで手術室へ
麻酔をかけるから横を向いて丸まってと指示があり、体を丸め、じゃあ麻酔しますねと言われた瞬間頭が出て来ているからこのまま産もうという事で、自然分娩で出産。

手術室に入ってからわずか15分での出産でした
が、我が子は出て来ながら息をひきとりました

あれから2ヶ月半。
まだ涙が流れない日はありません。産んだはずの我が子がここにいない事が苦しくて押しつぶされそうな毎日です

でも、娘は自分の病気が分かっていたから、きっと私がお腹を切らなくてもいいように
すぐに元気になって弟か妹を産めるように、自分で出て来たんだと思います

そして
ママ私元気に産まれて来れなくてゴメンね
でも、どうしても、なにがなんでもパパとママに抱きしめてもらいたくてここまで頑張ったの

ママありがとうってメッセージを受けたような気がしてそれが救いになっています。

大切なのはどれだけ生きたかの長さじゃない
そして元気に生まれてくるという事は当たり前ではく奇跡だという事
命の尊さを皆さんに感じて欲しいです

胎児と会話する事は私には出来ませんが、我が子は私の言葉を理解して一緒に頑張ってくれたのは確かです

2009.07.10 投稿者:スマイル

19歳のとき、大好きだった彼のこどもをみごもりました。

ちょうど妊娠がわかったとき、彼が難病にかかり、高熱など脳へのダメージで意識のない生命が危険な状態でした。互いの両親公認の交際で、看病のため何日も病院に泊まり込みもしていました。

この先彼がどうなるかわからないこと、私がクリスチャン家庭であったこともあり母にも相談できず、皆にばれないよう中絶しました。

今でも中絶に行った先の医師の厳しい眼差しや麻酔時の意識がなくなっていく感覚・映像をはっきり覚えています。
幸い、彼は何ヶ月か経って、奇跡的に回復しました。そして、他の女性と付き合っていたことが発覚し、別れることに。

私は朝起きると涙が出て止まらない、というような状態が続きました。
男性を信用できなくなり、自分が女性であることさえ疎ましく思ったり。女は損、傷を受けるのも痛みを経験するのも女、と。

それから「ひとりでも生きてくんだ!」と、世界中を旅したり、どこでも食べていくためナースの資格をとったりしました。

何年か世界中の自然や人と触れ合っていく内に痛んでいたこころの傷も少しずつ癒えて、お隣の国の男性との出会いで、過去もひっくるめて受け容れてもらい、海を越え、結婚に至りました。29歳。

国際結婚という難しさもあるけれど、この人のこどもを産んであげたいな、と思えた頃に妊娠。

ですが、心拍が確認できない稽留流産と言われ、子宮内除去術。検体を確認したら、胞状奇胎と診断されました。

「神様、ごめんなさい。健康な大事な命を殺してしまったこと」と10年以上前の中絶を再び思い出しては悔やみ、苦しみました。
胞状奇胎は幸い、がんには進行しませんでした。

しかし、毎月の血液や尿検査、診察が2年間続き、これは自業自得なんだ、と自分を責めたり、いっそ、こんなんだったら、がんになって死んだしまったほうが夫を苦しめずに済む、などと鬱っぽくなったりもしました。

不思議なことに、病気をひとつ持っていること・痛みを経験したことで、ナースとして患者さんに接したり友人との関係でも、つらいことを打ち明けてくれる人が多くなりました。

そんなことが有り難く感じるようになった頃、再び生理が遅れて、妊娠反応が出ました。
すごく嬉しかったです。

「神様がまた私に命を授けてくださった」と。
大事な大事な命。妊娠初期の病棟夜勤は闘いでした。
結局、赤ちゃんの成長をじっくり楽しみたいと思ったのでナースのお仕事も辞めました。

信頼できる助産師さんに出会い、色んな医療介入をできるだけ避け穏やかにベビーちゃんを迎えたい、という願いも叶い・・・
2007年11月、37週0日ギリギリで、自宅で元気に泣く、手足バタバタの男の子を迎えることができました。

今、この子との色んな出来事の中で、本当にたくさんの嬉しいこと、しあわせを与えてもらっています。
時には私への警告もあり、親としても人間としても至らないことを教えてもらっています。

育てている、というより、成長のほんの手助けをしている、という感じでしょうか。
こんな私でも母として求めてくれるなんて、とあわれみを感じることも。

今年11月、長男が2歳を迎える頃にまた新しい命が誕生する予定です。
今度はどんなことを教え、与えてくれる命なんでしょう。

体づくり、健やかなこころづくりに励んでいます。
長男との2人の時間、夫と長男と3人の時間を楽しんでいます。

この15年間、4つの命が私に与えられました。
ひとりよがりになったこともありました。
私が夫や両親に受け容れられたように、与えられたこどもも出会う人も包み込む、生きるエネルギーが得られる家庭をつくりあげていきたいと願います。

2009.07.02 投稿者:mmk

結婚してすぐにでも子どもを欲しいと思っていた私達でしたが、1年過ぎても妊娠しないこと、私自身2回目の結婚で1回目の結婚のときもなかなか妊娠しなかったことを悩み、結婚2年を待たずに不妊治療を始めました。

タイミング療法や漢方薬でホルモンバランスを整えたりと1年近く頑張りましたがなかなか妊娠には至らず、そのうち、毎日薬を飲むことすらストレスに感じるようになりました。

診察の度に主治医と話しながら涙する状態でした。
転勤の多い仕事をしていたので、主人と一緒にいられる間に妊娠したいという気持ちも強かったのです。

人工授精にステップを進めようとしているときに主治医から「人は腐っている時期も大切。腐る時期があってこそそれが肥料となり、また成長できるのよ。もう基礎体温も測らなくて良い。自然に生活してごらん」と言われ、治療を止めました。

同時に、「あなた達が、赤ちゃんが来たらこう育てよう、こんなに幸せなのに、ってストレスをかけてる。もっと自然に子どもが欲しいと思って気長に待ってごらん」とも言われました。

その後、そのときの仕事を続けることが赤ちゃん待ちのストレスになるのならばと、仕事を辞め、また違う環境で自分らしく生きていこう。そうすることで子どもが授からなくても後悔しない人生にできる。という気持ちで新しい仕事を始めました。

そう思っていてもなかなか妊娠しないことにストレスを感じ、それを打ち消すように仕事に没頭している頃に、スピリチャリストの方とお話する機会があり、子どもが欲しいけどできないという相談をしました。

すると彼女は「赤ちゃんはあなたのところにずっと行きたいと思っている。なのに、あなたは口では子どもが欲しいと言っているけど、心の底から赤ちゃんに来て欲しいと思っていない。それが赤ちゃんはわかっているからまだ来ていないのよ。赤ちゃんはいつでもいける準備ができているの」と言ったのです。

その日から、毎日、寝る前や信号待ちのふとした時、お風呂に入っているときなどに「いつでも来て良いのよ~。仕事も毎日がんばってるけど、あなたが来たら仕事なんですぐにでも放り出してあなたを一生懸命に愛するわ。ママのところにおいで~」と願うことにしました。

それから2ヵ月後、妊娠しました。
主人と、「もう子どものいない人生でもいいかな~って思うよね。でも、いたらいたで幸せだよね~」と自然体でいられる心の余裕がお互いにできた頃でした。

それから38週間、会いたい気持ちでいっぱいで結果的には破水しても陣痛が来ず、赤ちゃんはまだお腹に居たいみたいだけど出してあげようね。とうことで促進剤を使っての出産になりました。

急に押し出されることになった娘はびっくりしたように出てきて、私も過呼吸になりお互いに酸欠状態になりましたが、私の会いたい気持ちが先走ってしまったような出産になったと思っています。

娘も5ヶ月。お話ができるようなったら、どんな気持ちで私のところに来たのか、いつから私を見てくれていたのか聴いてみたいと思います。

2009.06.26 投稿者:りんくさくら

子宮外妊娠を2度、不妊治療を7年、体外受精でやっと息子を授かりました。

井上さんご夫婦のレポートを拝見して、すごくすごくうれしかった気持ちや、生まれるまで不安だった気持ち、
いろいろ思い出しました。

体外受精というと、いわゆる試験管ベイビー。
正直最初は自然に逆らうような、神をを欺くような行為に思った時もありました。

私は子宮外妊娠になったとき、一度目は卵管を切除する手術を受けました。
(一般的に卵管は一本なくても左右どちらかがあれば妊娠は問題ないということでしたので)

でもその時もすごく子供が欲しくて妊娠したと思った束の間でしたからとてもショックでした。

その後も早く子供ができるよう夫婦でよく子宝の神社に行ったり神頼みのような時もありましたが、
やっと妊娠反応が!

ところがまたお医者様からは、まだ、おめでとうとは言えない状況と言われ、
8割以上は2度目はないと言われていたのに、残っていた卵管も子宮外妊娠になりました。

そして考えたり悲しむ間もなく緊急手術に。
ただ何とか卵管温存の方向で…と残す形での手術をしていただきましたが、通常の自然妊娠の確率は3割と言われ、もう真っ暗に…

出産年齢は年々遅くなっているとはいえ、30代半ばの私は焦りと絶望で、暫くお友達の子供にも会えないような状態になりました。

もう主人と二人きままに生きていくのも悪くないと思い、二人で旅に出かけたり、二人だけの人生の未来を考え始めましたが、どうしてもあきらめきれず、治療だけは惰性のように病院へ通う日々でした。

そんな時、お医者様が、「あなたは2度も妊娠したことがあるのだから妊娠はできるのですよ!ただ、ちょっと他の人より手助けが必要なだけ」と言って頂き体外受精を行うことにしました。

しかし、もっと難しい状況で治療している方や、体外受精も何度も頑張っている方は沢山いらして、話を聞いているだけで、もうすべてが不妊治療漬けのようになっている世界が少し異常に感じられるほど。(それだけみんな切なる願いなのですよね)

私は精神的にそんなに強く頑張れるか、不安で逃げ出したい気持ちでした。

一度目は受精しませんでした。
何だか心のどこかで、愛し合ってできるのが子供なのに治療でなんかできない。という気持ちにもなっていました。

でも先生が、「どんなに医学が進んでもね、医者なんてとても無力なんですよ。受精するのは生命力自身ですから。医者はね、ちょっと不都合なところを補うような、お手伝いをするだけ、産まれるときだって医者は少し手を貸すだけなんですよ」

何もしてあげられなくてごめんなさいと。
そんな温かい先生のお陰で、「私が頑張らなきゃできるわけないのだ。」と思い次にチャレンジができました。

そしてお陰さまで妊娠。
でも産まれてこの手に抱くまでは、どうしてもぬか喜びしてまた落ちるのが怖くて信じられず。

両親にも安定期に入ってから妊娠したことを報告しました。

出産は12/24イブ。あと一歩で神の子!?(笑)
正直どんな形で出産したいかといった選択の余裕はなく、ともかく無事に!を前提に
一番お世話になっていた大きな病院で出産しましたが、出産自体は想像以上に楽しい出来事でした。

子供にも堂々と言えます。
パパとママが昔恋をして、愛の中から最先端医療も使って産まれてきたのよ!
スペシャルなんだぞ~!と。(笑)


思い出しながらで;すっかり長文になってしまいましたが…読んで下さった方有難うございます。
出産のことより不妊治療のこと中心になってしまってごめんなさい。

偶然の奇跡がたくさん重なってできた素敵な命!
そんな素敵な出来事を映画にされるなんてすばらしいこと。
出産経験した方は思い出し、これから経験するであろう方にもたくさん知ってほしい。
そしてすべての人がその奇跡の重なりで産まれてきたことを感じてほしいですね。

上映楽しみにしています。

2009.06.23 投稿者:ミゴムシ

妊娠中は定期検診のたびに心配で、毎回メソメソしていた私。
超音波で見る息子の元気な姿に安心してまた涙々。
そんな心配性の私をよそに、お腹の中の息子はぐんぐん育ち(育ちすぎ?)
予定日よりも二週間早く出産する事になりました。

促進剤を打ち激しい陣痛に耐えながらも、「息子も頑張ってるんだ」「もうすぐ会える」と自分を励まし
最後は助産師さんがまたがってお腹を押し、先生が吸引してやっと出てきてくれました。

妊娠中あれだけ涙していた私ですが、産んだ直後は嬉しさのあまり泣く余裕すらありませんでした。

10ヶ月間ずっと会いたかった恋人に会えたような・・・
私がずっと会いたかったのは君だったんだねー。って。
出産の痛みは辛かったけれどこれを乗り越えて得た幸せは大きかったです。

映画の完成を楽しみにしています。

2009.06.22 投稿者:まや

昨年の夏、女の子を出産しました。
出産は痛いものだと聞いていましたが、私にとっては快感でした。

確かに陣痛の強い波が来たときは痛いのですが、我慢できる痛みです。
赤ちゃんが下へ下へと移動していくのを感じることができました。
そして、いったん強い波が納まると、恍惚としたなんともいえない幸せな感覚がやってきたのです。

ずっとこのままでいたいとさえ思いました。
また強い波。そして、その波が治まると、また眠くなるような気持ちのいい幸せな感覚へ・・・。

これを3回ほど繰り返しました。
分娩台に上って1時間後。わが子が生まれました。

あの恍惚とした感覚はいったいなんだったのだろう。
出産は痛いものだと聞いていた私にとって、びっくりするくらい気持ちのいい出産でした。

現在わが子は9ヶ月。つかまり立ちもできるようになり、すくすくと育ってます!
生まれてきてくれて本当にありがとう!大好きだよ!

2009.06.17 投稿者:なゆママ

先月、女の子を出産しました。

突然の破水からはじまり、3日間促進剤で陣痛に苦しんだのですが、体力の限界…、結局帝王切開で出産となりました。

赤ちゃんと対面したとき、もちろん手術中でしたが、号泣してしまいました。元気姿を見て産声を聞いた瞬間、ホッとしたのやらうれしいやら、感動して涙が止まらなくなったのです。縫合手術をされながら、先生や看護師さんに「ありがとうございます~」と涙でぐしゃぐしゃの顔でずっとお礼を言っていました。

麻酔から覚めて次の朝、ずっとお腹にいた赤ちゃんを腕に抱いたとき、なんだか不思議な違和感がありながらも、必死にお乳に吸い付く姿が愛しくて、また泣いてしまいました。。無事生まれてきてくれて本当にありがとう、と。

初めてのお産は、陣痛の苦しみや術後の辛さ、生命誕生への感動、周囲への感謝…。それらがごっちゃになって嵐のように通り過ぎた感じです。他のみなさんはどんな出産しているのかしら?映画の完成を楽しみにしています!

2009.06.14 投稿者:しま

初出産のときは、とにかく不安だらけでした。ギリギリまで仕事をしていたので、産休に入り、病院に健診に行ったら、「陣痛が始まっているからすぐに手術」と!

正直まだ少し先だと思っていたので、入院の準備もしておらず、更には誰の付き添いも無く怖くてしかたありませんでした。
でも手術開始10分後、赤ちゃんの泣き声を聞いて、一気に今までの不安は消えました。

10ヶ月近くお腹の中で眠っていたわが子に初めて会えて嬉しかった瞬間ですから!ただ、帝王切開は術後が辛かったです。でも子供の顔を見ている時間が幸せでなりませんでした。

出産はゴールではないので、その先子育てという大変な仕事がありますが、忙しくイライラしてても、子供の寝顔を見ていると本当に癒されます。出産は私を強くしてくれました。きっと守るものができたからでしょうね。

出産は大変ですが、子供を産み、育てるということは本当にすばらしい事だと思います。

映画公開楽しみにしています。

2009.06.05 投稿者:ahoaho

昨年5月に長男を出産しました。
48時間という長丁場でしたが、息子は私の誕生日の翌日に
心音も1度も下がることなく元気に産声を上げてくれました。

誕生日が1日違いということできっと、私自身の誕生日は
これから徐々に忘れられていくことでしょう。

でも息子への誕生日おめでとうはママ誕生おめでとうで
ママ頑張ったねの日です。

毎年そんな素敵な日が来るならば、
私の誕生日なんて忘れられたっていいやって思います。

君に出会えた奇跡におめでとう。
ありがとう。


2009.06.05 投稿者:紫の月

昨年7月に長男を助産院で出産しました。

分娩中は、野生のコヨーテのごとく、遠吠えしていましたが、あまりにも幸せすぎて、気持ちよく歌を二曲うたってしまいました。すると、ちゅるんっと、赤ちゃんが生まれました。

身体はどんなに苦痛にさらされても、精神的にはとても幸せで温かく、光に包まれて守られている感覚がありました。生まれてきた赤ちゃんに、神聖さを強く感じました。素晴らしいお産をさせてもらえ、とても感謝が尽きません。

映画の上映を楽しみに待っています。がんばってくださいね。

2009.05.17 投稿者:歌うお産

昨日、長女が女の赤ちゃんを出産しました。
「お母さんの30回目の母の日記念よ」との素敵なお手紙も一緒のプレゼントがありまし
た。

娘は自分が母親になる事をきっかけに、私との関係を見つめ返しているようです。
長い手紙には、「私は自分で選んであなたの子供になりました。あなたの子供であって
本当に良かった。私を産んでくれて有難う!」と書かれてありました。

こんな幸せを今、私は味わっています。

2009.05.13 投稿者:K.N.