※ 僕はザ・ビートルズ、ジョン・レノンは大好きですが、マニアではありません。
以下の記述は正確に調べたものではないので、
もしかしたら年号など数字や流れが若干、間違っているかもしれません。
すみません。
ザ・ビートルズの中心メンバーであった
ジョン・レノン。
彼は
産みの親に育てられず、
かなり鬱屈した青春を過ごしていた
のはご存知でしょうか?
父親は失踪し、
素行に問題のあった母親には育てられず、
母親の姉に育てられます。
その後、産みの母と再会しますが、
彼女は子どもを3人育てていました。
「なぜ自分だけ育ててもらえないのか。。。」
複雑な心境を抱きつつも、ようやく出会えた母親とは頻繁に
連絡を取り、そして音楽を教えてもらいます。
そんな彼女もジョンが18歳の時に交通事故で死亡。
ジョンの心には、深く強烈な喪失感が刻み込まれ、
特に若い頃は酒やドラッグに溺れていた事もあったようです。
彼女は何かと揶揄される事も多いようですが、
ニューヨークの前衛アーティストであった彼女は、
ジョンに新しい出会いと芸術的刺激だけでなく、
落ち着きと癒しをもたらしました。
※ ジョンとヨーコは何度も来日していたそうですよ。
そして2人は有名な「ベッド・イン」というパフォーマンスだけでなく、
得意の音楽と芸術を活かして反戦運動・平和活動を
していくのですが、FBIに「危険人物」としてマークされ、
盗聴や尾行など様々な嫌がらせを受けた上に、
「国外追放」を宣言されます。
そんなストレスフルな生活からのプレッシャーからか、
ジョンの「悪癖」が顔を覗かせ、2人の関係は破綻。
一時、距離を置く事に。。。
ジョンはニューヨークを離れてロサンゼルスへ行き、
音楽活動だけでなく、酒と暴力の日々を過ごすようになります。
しかしある時、目覚めた彼はニューヨークへ戻り、
そしてヨーコとも、よりを戻します。
1975年、ベトナム戦争がついに終結し、
ジョンの国外退去命令も破棄。
そして10月9日、
ジョンの誕生日に、
それまで何度か流産していたヨーコが
ついに2人にとって初めての子、
ショーンを出産します。
父親を知らず、
実の親に育てられていないジョンは、
長い間、
家族というもの、親になるということに対して、
疑念と不信感を抱いていたでしょう。
しかし、
ヨーコによって救われ、
流産という悲しみを2人で乗り越え、
待望の赤ちゃんが生まれてきてくれた事で、
「俺も父親業にチャレンジしてみよう!」
と思ったのではないかなぁと思います。
育つ環境の中で愛され方を知らなかったにも関わらず、
愛し方を懸命に模索し続けていたのですね。
僕も似たような経歴を持っているので、
とても良く分かります。
ショーンが生まれた翌年、
ジョンはレコード会社との契約が切れたことも幸いし、
音楽活動を休止。
「専業主夫」としての生活を開始
します。
当時のアメリカは、今のように男性が育児参加していた
わけではなかったようなので、
ジョンの選択は驚きをもって迎えられたようですが、
ジョンの影響もあってか、
現在のアメリカは「イクメン」である事が普通になっています。
「主夫」になったジョンの生活は、以前と180度変わり、
ミルクをあげ、パンを作り、水泳を教えると言ったものになり、
本当の幸せを感じられるようになったそうです。
ショーンが生まれて5年後の1980年に、
ジョンとヨーコはアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表し、
シングル「スターティング・オーバー」で「やり直そう」と
宣言して音楽活動を再開。
反抗児だったビートルズ時代とは変わり、
「ウーマン」
「ビューティフル・ボーイ」
など、父親として、夫として、音楽を「やり直そう」と
取り組んでいた矢先のことでした。
1980年12月8日、
愛する家族と暮らすアパートの前で殺されてしまったのです。
暗い出生、辛い思春期を経て、
ようやく幸せを掴んだジョン。。。
そして、
最愛の夫を亡くした後も再婚をせずに
ジョンの「未亡人」であり続けているヨーコ。。。
映画「ジョン・レノン、ニューヨーク」は、
史上最も偉大なミュージシャンの一人であるジョン・レノンが、
ニューヨークの地で、普通の男性として、
夫であり、そして父親でありたいと願った記録を描いた
ドキュメンタリーではないかと思います。
いままでジョン・レノンと自分に共通点なんてあるわけないと思っていたけど、
意外なところにありました。
監督・父
豪田トモ
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