最後の抵抗 〜施設の子どもたち〜

監督・父の豪田トモです。

以前もご紹介させていただきましたが
長野県の児童養護施設・軽井沢学園の高根英貴さんが
書かれている、とっても素敵な日記です。

許可をいただいてご紹介させていただきますー。

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「こんなものいるかっ!」

そう叫びながらマキ(仮名)は、
かわいいリボンの付いた誕生日プレゼントの箱を床にたたき付け、
何度も何度も足で踏み付けました。

卒業間近に控えた田口マキの
12回目の誕生日の晩のことでした。

毎日子どもたちに勉強を教えに来ている寺山先生は、
昔から子どもたちの誕生日に、
担当職員には内緒でささやかなプレゼントを贈ってくれています。

そんな寺山先生からのプレゼントを
マキは中身も見ずに

「こんなものっ!こんなものっ!!」

と繰り返し踏み付けながら叫んでいるのです。

その様子を叱る事もせず呆然と見つめる寺山先生は、
マキがその場を去った後、
一人でボロボロになったプレゼントを拾い上げていました。

私は、その時の寺山先生の悲しげな顔を
10年近く経った今でも忘れる事ができません。

プレゼントをもらって喜ばない人なんていないと信じる私は、
何故マキがあのような行動に出たのか、
その時のマキはどんな心境だったかなど、
当時全く理解できませんでした。

マキは、未婚の母の子として生まれ、
2才の時、軽井沢学園にやってきました。

母はまだ若く、遊びたい盛りであったと同時に
養育力も乏しく、マキを置き去りにして遊びに行ってしまうような人でした。

そのような状況がネグレクト(保護の放任、怠惰)であると
判断されてここにやってきたのです。

マキは、幼い頃から甘えることが苦手な子どもで、
職員に甘えている同年代の子どもの姿を
いつも部屋の端から眺めているような子どもでした。

そして、小学3年生になる頃から
周囲の大人たちに対し暴言を吐くようになり、
些細な事でもいちいち反発するため、
職員とのトラブルは日々絶えませんでした。

マキは年を重ねるにつれ、
大人を寄せ付けなくなっていったのです。

そんなマキが小学5年生になる頃、
家庭の状況に変化がありました。

母親が結婚したのです。

今まで母一人では生活も危ういために
マキを母のもとへ帰省させることは出来なかったのですが、
結婚して生活も安定したため、頻繁に帰省が出来るようになりました。

そして新しい父親とも交流を重ねるにつれ、
家庭引き取りの話が持ち上がります。

今でこそ私は施設で暮らす子どもたちには
「辛いこともあるけれど軽井沢学園で良かった。」
そう思ってもらえるように努めていますが、
当時の私は違いました。

ここで暮らす子どもにとって大切なことは、
一刻も早く家庭に帰すことであり、
早期在宅復帰こそが我々施設職員の使命であると考え、
それに向かって突き進んでいたのです。

たとえそれがどんな家庭であったとしても
"家庭に勝るものなし"そう信じて疑いませんでした。

当時はそのような価値観の真っただ中でしたので、
マキのケースも同様、家庭復帰に向け着々と話が進んでいきました。

マキの気持ちは置き去りのままで...

そして、
私たちはマキの両親や児童相談所とも協議を重ね、
マキの退所日は小学校卒業式終了後と決めました。

そのことをマキに伝えたのは6年の夏休みの最終日で、
児童相談所の若い女性職員がそのことを伝えました。

マキは終始うつむいたまま、黙って話を聞いていました。

2学期に入り、
まもなくしてマキに登校渋りが始まります。
担任が嫌だという理由でした。

それでも私たちは小学時代最後の年を
不登校で終わらせてはダメだと考え、
何とか学校へ行かせようとしました。

時には泣いて嫌がるマキを
大人2人掛かりで抱えながら
学校へ連れて行ったこともありました。

しかし、マキは教室へ入る事を頑なに拒むため、
かろうじて登校出来たとしても、
保健室登校が精一杯で、
2学期が終わる頃にはとうとう学校へ行かなくなりました。

そして3学期に入り、
あの12回目の誕生日を迎えます...

退所を間近に控え、施設生活も残りわずかだというのに、
あの誕生日の出来事に象徴されるように、
マキは決して大人と打ち解けようとはせず、
残りわずかな日々も大人との言い争いで虚しく過ぎていきます。

担当職員もさすがに疲弊し、
担当以外の職員も口々に

「マキはここではもう無理だ、早く家に帰すべきだ。」

と言い、
そのような雰囲気が施設全体に広がっていました。

そして、その日がやってきます。

中学への入学手続きも済んで、
退所の準備は全て整いました。

ところがです。

卒業式当日の朝、
マキは「やだっ、絶対に帰りたくない。」と言って、
部屋の扉につっかえ棒をして立てこもったのです。

卒業式が始まる1時間前のことでした。

私たちは慌て、
マキを説得するため部屋のドアをはずして中に入りました。

しかし、マキは押し入れの中に閉じこもったまま出て来てはくれません。
昨日までは卒業式には必ず出ると言ってくれていたのに。

マキのすすり泣く声を襖越しに聞いた私たちは
説得することをやめ、結局、卒業式は欠席させました。

親子で卒業式に出席したのちに施設を退所する
という当初の予定とは少し変わりましたが、
お別れの時間が迫って来ました。

両親はマキの荷物を車に運び込みます。
マキは相変わらず部屋に閉じこもったままで、
いくら呼んでも返事すらしてくれません。

そうこうしているうちに1時間が経過しました。
さすがに両親も苛立ち始め、職員はそれぞれの対応に追われます。

そんな中、私はある決断をしました。

「あと15分説得しても駄目だったら、
マキを部屋から出して担いで親の車に乗せましょう。
辛いかもしれませんが、家に帰る事がマキにとっての幸せだと信じて。」

私は勤務中の職員全員を集めてそのように伝えました。
そして、マキを説得する役、担ぎ出す役、残りの荷物を運び出す役、
その様子を見て動揺するであろう他の子どもたちを落ち着かせる役、
それぞれの分担を割り振りました。

説得役として指名したのは石坂保育士でした。

石坂保育士はマキが素直に話すことができた唯一の大人であり、
最後までマキの行く末を案じていた職員です。

泣き叫ぶマキを大人数人掛かりで取り押さえ、
追い出すようにして退所させるなどという
最悪のシナリオを迎えたくないと思ったのでしょう。

石坂保育士は私の話が終わるのを待たずに
マキの部屋へ向かって駈け出して行きました。

15分後"担ぎ出し役"として待機していた私たちのところへ
石坂保育士が走ってきました。

「マキ、自分で出て行くって言ってるから大丈夫!!」

どうやら説得に成功したようです。

「そのかわり、皆に知られないように裏口から出て行きたい。
絶対に見送らないで欲しいって言ってます。」

と付け加えました。
最悪のシナリオが回避できるならばと快諾して
"担ぎ出し役"は解散し、通常業務に戻りました。

数分後、マキは誰に見送られることなく、
一人で両親の待つ車に乗って10年間過ごしたこの学園を去って行きました・・・

後になって知った話ですが、
マキが何故家に帰ることを拒んだのかというと、
新しい養父を「おとうさん」と呼ばなくてはならない事に、
耐えられなかったからなのだそうです。

養父はマキの父親になろうと努力したらしいのですが、
マキ自身が心を閉ざし、
私たち職員同様に養父とも打ち解けようとしなかったのです。

マキにしてみれば今まで他人だった人を、
ある日を境に父と認めるなんて器用なことは出来るはずもなく、

ましてや大人を一切信用しないマキにとっては、
到底受け入れることが出来なかったのでしょう。

あの日、15分という限られた時間の中で
必死に説得を試みた石坂保育士はこう言います。

「私が説得したわけじゃない。
マキはずっと前から家に帰る覚悟はできていました。

その証拠に、私が部屋に行くとすぐに『もうわかってるから。』
そう言ってマキは自分から出て来ました。」

と。
物心ついた頃から施設で育ち、

上手に甘えることもできなかった。

ホントはもっと仲良くなりたかったのに出来なかった。

そんな私の気持ちを大人たちは理解してくれない。

だから家に帰る覚悟はできていたけれど、
マキは私たち大人に対し、最後の抵抗をしたかったってことなのかと
私は思いました。

あの出来事を今振り返ってみると、
本当にあれで良かったのだろうか。

マキに対し、私たち大人は、もっとすべきことがあったのではないか。

少なくとも、マキの気持ちに寄り添いながら、
マキ自身が「よし、大丈夫!」と思えるくらいに自信をつけさせてから
家に帰すべきであったと、今更ながら考えてしまいます。

子どもたち一人ひとりの人生を預かる大事な仕事。
そう自覚することが私たち児童養護施設で働く大人たちの責任であり、
誇りでもあります。

ここで暮らす全ての子どもたちの"ホントの幸せ"とは
一体何かを常に考えながら、子どもと共に成長していきたい。

そんなことを今回この原稿を書きながら考えました。

その後、マキがどうなったのかというと、
中学時代の後半は不登校となり、
高校へ入学するも2年生で中退、
家出を繰り返して警察に保護されることもしばしばあったとか。

そして、現在はどこかの繁華街で夜の仕事に就いているらしいと
風の噂で聞きました。

その話を聞いた時は切ない気持になりましたが、
ちょうど1年くらい前、石坂保育士が病院の待合室で
ばったりマキに会ったそうです。

その時のマキは当時のような暗い面影はなくなり、
とにかく明るくてよく笑う、今どきの娘だったそうです。

そして、院内であるにもかかわらず、
息つく間もなく一方的に話しかけてきたそうです。
まるで今までの穴埋めをするかのように。

そんな報告を聞き、何だか私は少しだけ救われた気分になりました。

(文:高根英貴さん)

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