僕の表現活動のモットーの一つは、
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難しいものを分かりやすく、
分かりやすいものを分かりやすく、
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という事です。
映画でもブログでも、
「覚えなくても人生で困らない専門用語」
などは、なるべく馴染みのある言葉に変えてみたり、
話の展開も「伝わる」ように色々と工夫しています。
ただ、
「知的」と呼ばれる表現活動は、
難解だったり、分かりにくかったり、というものが結構あり、
そこに「考える余地」が生まれるため、
考えるのが好きな人にはありがたいのかなと思います。
映画も、マニアや批評家的な方には、難解なものの方が、
「これは表現のレベルが高い!いまの自分にはよく分からないが、
これは自分の理解力が不足しているからであり、表現が深いからだ」
というような感じで
受け入れられやすかったりします。
でもこれは「考える余地」であって「感じる余地」とも若干違うと思うし、
僕は
難しい表現をしている映画は、
単に表現が「難しい」というだけで、
作品が優れている事とは尺度が異なる
んじゃないかな、とも思っています。
それは会話と同じで、
相手に伝わる話が出来るのか、そうでないのか、という違いなだけで、
知的かどうかではないと思っています。
伝わっていますかね?(笑)
僕が分かりやすい表現に努めようとしているのは、
より多くの方に「伝わる」ためで、
「一部の人に分かってもらえれば良い」とは全く思っていません。
もしメッセージが伝わっていなかったとしたら、
それは自分の力不足だと思うし、
努力が必要な点だと思っています。
ただ逆に、もう1点、勘違いしてしまいがちなのは、
"分かりやすい映画"は、全て説明されてしまっていて、
"考える余地がない"、と考えられがちな事。
それは勿体ないなぁと思います。
"感じる余地"はまた別の領域ですから(脳の場所も別ですし)。
例えば、
イタリアンやフレンチ、懐石料理なんかと比べると、
「寿司」はとっても単純でシンプルに見えますが、
しっかりと見つめると、奥行きの深さを感じます。
お寺の庭もそうですね。
豪華絢爛な建物や無数の花で埋め尽くされた公園などに比べると、
物足りなさを感じられるかもしれませんが、
じっと見つめれば、シンプルな庭からはたくさんの事が見えてきます。
つまり、
「分かりやすい = 単純 = 考える余地がない」
という図式は、再考の余地があるという事。
あくまで感性の違いなわけです。
映画『うまれる』も、
11月から公開される次回作『うまれる ずっと、いっしょ。』も、
おそらく、とても分かりやすい映画です。
ご覧いただいていく途中で、
ストーリー展開や登場人物、彼らの葛藤や悩み、メッセージを
見失うという事はないと思います。
でもそれは「考える」余地がないという事ではなく、
【「感じる」余地をたくさん作りたいと思っているから】
なんです。
僕は映画を観て
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「頭で考える」、「理解しようとする」よりも、
「心で感じる」事を大切にしたいと思っていて、
そのためには「分かり易さ」が必要
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だとも思っています。
つまり、
「感じる」映画にするために、
余計な事を「考えさせない」
ようにしたいんです。
観ている時に、
「あれはどういう意味なんだろう?」とか
「この人、誰だったっけ?」とか
「この病気ってどういう事なんだろう?」とか、
不必要な疑問を作ると「考える脳」が引っ張られて、
「感じる脳」が働かなくなってしまいます。
「考える脳」をあまり使わず、
「感じる脳」をいっぱい使って欲しいんです。
映画から何を感じ取れるかどうかは、
観ていただく方次第。
たくさんの事を感じられても、
感じられなくても、すべて正解だと思います。
監督・父
豪田トモ