新作映画『うまれる ずっと、いっしょ。』も
だいぶ多くの方々にご覧いただくようになり、
「すごく良かった!」
とよくお声がけいただくと、一生懸命がんばってきて
本当に良かったなぁと思います。
ただ、一方で
「出ている方々がすごく自然でリアルですね!」
というようなご感想をいただくと、
【ちょっぴり違和感】を覚える時があります。
もしかしたら
「ドキュメンタリーとは自然な現実を映したもの」というイメージを
持たれている方も多くいらっしゃるかもしれませんが、
実はドキュメンタリーとは、自然なもの、
現実を如実に反映させたもの、とは若干、異なります。
なぜなら、
僕がカメラを持ってその場にいるからです(笑)。
登場人物の方々で数mの距離において、
カメラを向けられている事に気づかず、
「ああ、トモさんいたの?」
というトボケた人はまずいません
(笑、出産の撮影ではよくありましたが!)、
カメラを向けるにしても、
アングルを決めるのは撮影者である僕
(僕は撮影も担当しています)。
いつからいつまで撮影するのかを決めるのも僕。
撮らせていただいた膨大な映像を
どこからどこまで使うのかを決めるのは
僕や編集マンやその他のスタッフ。
と言う事は「自然な現実」ではありえないんです。
もし、仮に、カメラを前にしていつもとは違う自分を演じていたら?
僕には分かりようがありません。
演じるとまではいかなくても、
もしカメラに映るとしたら
「少しはよく見せたい」
という意識は皆さんも芽生えると思うんです。
すると、微妙に言動が普段とは異なりますよね。
それは人間として理解できる事ですが、
であれば、
「自然な現実」ではありえないんです。
これは「ドキュメンタリーの限界」とも言えるかもしれません。
オウム心理教を映した傑作ドキュメンタリー映画「A」などで知られる
森達也監督は
「ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実から事象を切り取ることではなく、
主観的な真実を事象から抽出すること」
と述べられていますが、正にその通り。
本当の意味で「自然」で「客観的」な「現実」を映すためには、
隠しカメラなんかで撮影し、それを未編集のまま流す以外にないんです。
でもそんな映像、お金払って見たいと思いませんよね?(笑)
一方で、
僕ら撮影側は、撮影に伺った時から帰るまで、
撮らせていただく方々と何の話もせずに黙々と撮る、という事はありえず
(中にはそういう作り方をする人がいるかもしれませんが、僕には無理!! 笑)、
公私にわたる様々なコミュニケーションをさせていただきますし、
インタビューなんかが良い例ですが、
質問を投げかける事もあります。
聞かれればアドバイスをさせていただく事もありえます。
それによって、
僕らがいなければ存在していなかった考え方や感情、
もしくは行動が生まれる事があります。
これは「ドキュメンタリーの可能性」と僕が呼びたい部分です。
つまりは繰り返しになりますが、
ドキュメンタリーというものは、「自然な現実」でもなければ、
「客観性」もないわけです。
僕はドキュメンタリーとは、
「ありのままの現実」や「現実を第三者的に映したもの」ではなく、
「カメラが存在する事によって新しく生まれた現実を、
作り手の主観によってさらに新たなものに生み出された物語」
だと思っています。
もしかしたらこれは作る側と観る側の意識の違いがあるかもしれませんが、
これがドキュメンタリーの現実です。
これは僕のドキュメンタリーに関わらず、
すべてのドキュメンタリーに共通の事実。
これまで撮影をさせていただいた方々には、
僕たちが撮影に入ることで、
普段はふれないようにしていた問題や、
お互いに気づかずにいた気持を話し合うことができ、分かり合える機会になった、
とおっしゃっていただく事はとても多くあります。
新作映画『うまれる ずっと、いっしょ。』は、
最愛の奥さまに先立たれた男性の「グリーフ・プロセス」の物語も出てきますが
(「グリーフ・プロセス」とは簡単に言いますと、
大切な人を亡くされた方が日常生活を回復するまでの道のりの事を言うようです。)
この方には
「トモさんたちの撮影が僕のグリーフ・プロセスになった」
とおっしゃっていただき、とても感激した事がありました。
『うまれる ずっと、いっしょ。』では、
カメラを持った僕がその場にいる事によって新しく生まれた現実を、
僕らスタッフ陣の主観によってさらに新たなものに生み出された物語
をお楽しみにいただければと思います。
監督・父
豪田トモ