うまれる ずっと、いっしょ。|映画『うまれる』

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うまれる ずっと、いっしょ。

マタニティブルー・産後うつの体験談 の全体験談

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始めまして。現在産後2ヶ月の女のこの母です。

夏に入籍し、次の春には第一子を流産、
その後順調に妊娠でき、2年目の冬には母になりました。

妊娠中のつわりは軽く、とても順調な妊婦生活でしたが、
年が明ける頃から左目の外側が見えにくくなったと感じていました。

眼科に行ったものの、特に異常は見られず、
気になるならまたおいでと言われた1週間後に出産。

しばらく実家に戻って赤ちゃんのお世話をすることになりました。

ところが1ヶ月経っても体調が戻りません。
子どもに吸われてもおっぱいも全然でません。

頭痛がするし、体に力が入らず、
ちょっとしたことですぐ熱を出し、
左目の視界も暗く狭くなったよう感じます。

3月中頃に、家族に言われて行った眼科で、
すぐ脳神経クリニックを紹介され、

その日のうちに受診、
MRI検査の結果下垂体が大きくなっているとのことで、
大きな病院を紹介されて、
脳神経外科から内分泌内科へ回され、今は入院しています。

まだきちんとした診断は出ていませんが、
どうやら下垂体の腫れによりホルモンがほとんど出ていない状態です。

おっぱいが出ないのもそのせいでした。

妊娠、出産に関わって下垂体が炎症を起こすことは、
非常にまれに起こるそうです。

検査でも熱を出してしまった私は、
もう待てないと言うことで、診断的治療に踏み切りました。

今までの経過きら診断を予想し、
治療をしながらその治療が効いたら診断を後からつけると言うタイプのものです。

先生方が考えてくださってここにたどり着き、
治療が始められ、効果が出ているのか現在は大分落ち着いてきました。

そして4月になりました。
まだ治療を始めたばかりなので、本当に慎重にことを進めなくてはいけないし、

年単位の治療だということは決まっているため、
これからのことが心配ですが、
このタイミングで見つかっただけでもラッキーだとおもって前向きに行こうと思っています。

もし、産前産後の辺りで私と同じような症状が出て、
変だと思っている方は、一刻でも早く通院して欲しいと思います。

子供や家族と離れているのはとてもつらいことです。

恐怖を煽るようなことになったら申し訳ありません。

でも、ひとりでも同じような事で困る方が減ったらいいと思う気持ちで書きました。

長文失礼します。

2017.04.02 投稿者:あーちゃん/青森県

私の母は結婚して10年間子供ができませんでした。

結婚して6年経った頃、筋無力症という病気になりました。
病気も数年は酷く、子供はあきらめていたと言います。

しかし、ある時友人と一緒に水子地蔵がたくさん祀ってあるお寺に行き、
その後、すぐに妊娠が分かったそうです。

結婚して10年経った頃です。
出産には迷いましたが、主治医の人が一人なら産んでいいというので産むことにしたそうです。

何のトラブルもなく、障害もなく、無事に私は生まれました。

私が小学生の頃、
水子地蔵がたくさん並んだ映像がテレビで流れたとき私が

「お母さん、なんだか頭が痛い…左の頭が痛いんだけど」と言ったそうで、

そのとき母は
「この子は水子の霊の生まれ変わりなのかもしれない」と思ったと、
のちに言っていました。

自分が行った水子地蔵の場所と同じような場所だったそうで…
怖くなったと言っていました。

私は、今までありがたいことに人にも恵まれ、(特に両親や親戚の人たち)
苦労という苦労もすることなく、
大きな病気もせずに過ごすことができています。

そんな私も結婚し、はじめての子供ができたのが28歳の時。

それも、生々しい話ですが、
避妊しないではじめての行為で一回でできました。

まさに、待っていたかのような感じでした。

その頃、私はまだ妊娠したいとか、
お母さんになりたいとか強い気持ちはなかったので、
戸惑いもあり、妊娠中もうれしいよりも不安が多かったです。

特に問題もなく、無事に女の子が生まれましたが、
もともと赤ちゃんがあまり得意なほうではなく、

どうやって接したらいいかわからず、
旦那さんと二人で悪戦苦闘していました。

長女は赤ちゃんのときからとにかくパパっ子で、
私が抱っこしていて泣いているときに旦那さんに代わると
ピタッと泣き止むという子でした。

性格も、食べ物の好みも、顔もすべて旦那さんにそっくりです。

その子が私には理解できないほど破天荒な子で、
思いがけない行動ばかりして育児には大変悩みました。

ヤダヤダ期とかいうけれど、
いつもヤダヤダ期のような子でした。

3歳になった頃、二人目をと旦那は言いましたが、
毎日の育児でヘトヘト、ノイローゼ気味の私は
そんな気になれませんでした。

その後、年長さんになった時に一度妊娠が分かりました。

長女はずっと兄弟がほしいと言っていたので、
私も気持ちを切り替えて赤ちゃんを産もうと頑張っていました。

喜んでくれるだろうと思ったら、
なんと、1時間くらい号泣したのです。

「ママが痛い思いをするのが嫌だ」と言って
泣き叫び続けました。

私にとって妊娠はうれしいことだったし、
長女のために産もうと思って頑張ってきたのでガッカリしたし、
とても悲しい気持ちでした。

そして、その赤ちゃんはその後すぐに流産してしまいました。

とても悲しくて、
長女も自分が泣いたせいじゃないかと悔やんだりしていました。

流産してからしばらくはもう赤ちゃんはあきらめようと思っていました。

しかし、長女がことあるごとに
「どうして赤ちゃんはいなくなっちゃったのかな?もう来てくれないのかな?○○は妹がほしい」と言ってくるのです。

つらかったですが、これで最後!と思って、
今月でできなければもう生まないと旦那さんと二人で話し合って決めたその月に、赤ちゃんがお腹にきてくれました。

長女の理想通り、女の子が生まれました。

その子は、今3ヶ月になりますが、
寝顔がお地蔵様にそっくりなのです。

怖いくらい、寝顔がお地蔵様です。

私は寝顔をついつい写真に撮ってしまうのですが、
この間母と、お地蔵様に似てるよねという話になり、
お地蔵様のことを調べたら、お地蔵様は水子の守り神なんですね。

なんだか私のことと、
流産してしまった子のことを守るために次女が生まれてきてくれたのかな?なんて思ったりしてしまいます。

スピリチュアルなことはあまり信じないタイプではありますが、
もしかしたらそういうこともあるかもしれませんよね。

ちなみに、次女はものすごいママっ子で、
ママが大好きというのが伝わってきます。

不思議と私は次女に接するとき、
神様に接するような気持ちになってしまいます。親バカですね。

長女のことはとてもかわいいですが、
パパが大好きでたまにさみしい思いをしてきたので、

次女は私を助けるために生まれてきてくれたのかな?
なんて思ってしまいます。

子供ができる、生まれるということは本当に神秘的なことですね。

二人も素敵な子供を育てることができて、私はとても幸せです。

2016.09.05 投稿者:ゆき/神奈川県

今月末で2歳になる娘がいます。イヤイヤ期も迎え大変な事、イライラする事も増えましたが、私を必要として無条件で愛してくれる娘は何よりの宝物です。そして私に娘を授けてくれた人、人生のパートナーになってくれた夫も大切な人。
贅沢はできないし裕福な生活ではないけど、愛する人と過ごせる毎日が幸せです。

そう思えるのは鬱病を経験したから。
きっかけは社会人になって仕事のストレスだったと思いますが、そこから自分の中に親への確執がある事に気付きました。

幼い頃から「私は必要とされているのか」と思い続けてきました。
2歳違いの妹はワガママも言い、好きなだけ甘え、いつもそんな妹が羨ましくて仕方なかったです。
また、夫婦仲が悪い両親だったのでいつも父親の愚痴を聞かされ、経済面の愚痴を聞かされ、妹の愚痴も聞かされる。その反面、私は自分の気持ちを押し殺し、母親の期待や理想を裏切らないように生きてきました。
母親の期待に応えるように過ごし、母親に敷かれたレールを歩いて大学まで生きてきました。

卒業後、社会人になり親元を離れて働き始めましたが、仕事のストレス、慣れない一人暮らしをきっかけに鬱病になりました。「親をがっかりさせたのではないか」という申訳なさ、自分が欠陥のある人間のように感じ生きている価値がないと思うようになりました。
それと同時に、治療の中で自分の気持ちと初めてぶつかり合い「誰かに必要とされたい」「愛されたい」という気持ちがある事にも気付きました。
親ともぶつかりました。親は私が思っていた以上に妹と同様に愛情を注いでくれていた、そして大人になった今でも愛してくれている…大人になって初めて親の気持ちを少しですが知る事が出来ました。
それでも未だに親との確執が完全に消えたわけではなく、今でも私は両親、特に母親が苦手です。
妊娠、出産を通して母の偉大さを感じながらも、それでもまだ母親を許せない気持ちがあるのです。

鬱病の治療は約3年かかりましたが、当時付き合っていた彼、現在の夫の支えもあって完治する事ができました。
何度も手首を切り、ODを繰り返し、常に死ぬことばかり考えて一時は入院までしました。夫には相当迷惑をかけていたと思います…それでも夫は「君がいない人生は考えられない」と言ってくれ、時には一緒に泣いて側で支え続けてくれました。
夫の存在があったからこそ「生きていていいんだ」と思えた。今でも夫へ感謝の気持ちは消えません。

その後夫と結婚し、大切な娘を授かり出産しました。
今でも娘を抱きながら「あの時もし死んでいたら、この子はここにはいなかったかもしれない」と思うと、本当に死なないで良かった…そう思います。

娘の育児は大変ですが、「ママ、ママ」と甘えん坊でいつもママを求めてくれる娘を見ていると「こんなに私を必要としてくれる娘は神様からの贈り物だ」と思えます。
生きている意味も分からなかった私。誰かに必要とされたかった私。
娘は私に生きる希望を与えてくれる存在です。

現在私は母親との確執と戦い、また、そんな母を反面教師として娘との子育てに奮闘しています。どこかで母親と同じ事を繰り返してしまうのではないかと怖くなる事もあります。
それでも、目の前にいる大切な娘のために強くなりたい…この子を幸せにしたい…そんな思いで日々を過ごしています。

映画「うまれる」を観て、同じように親との不仲に悩みながら生きてきた方の存在を知り、たくさんの事を気付かせていただきました。
これからもこちらで刺激を頂きながら、大切な娘との貴重な時間を、子育てを楽しんでいきたいと思います。

長文、乱文失礼しました。

2013.03.02 投稿者:ぷらむ

私たち夫婦は、この映画『うまれる』を観た4日後に、第2子の次男(たっくん)を亡くしました。
生後114日目、0歳3カ月半でした。

原因は不明で、最も可能性が高いのは、乳幼児突然死症候群とよばれる突然死です。
病気1つしたことがなく、元気そのものだった我が子がまさか睡眠中に急逝してしまうとは、
あまりの突然さに受け入れることが難しく、悲しみに暮れました。

映画『うまれる』を観た直後というおかげもあり、

「お腹の中にこの子が宿ったときから、
 ウチらは幸せそのものだった」

「出産予定日に子どもを亡くした方もいるのに、
 ウチらは114日間も子どもと一緒にいられた。
 この子の笑顔も見られた。114日間、よい思い出ばかりだ」

「この子は、私たちに十分に幸せを与えてくれて、
 この世での役割をまっとうして、亡くなったのだ」

「本当に、この子にたくさんの幸せをもらって、感謝している」

などと、すぐに前向きな考えが頭に浮かびました。

弔問に来てくださる方々にも、そう語りました。

しかし、実際には頭ではわかっていても、
心の方はそう簡単にはいきませんでした。

次男を小さな小さな棺に入れるときは、どうしても抵抗があり、
もう冷たくなった次男を手放すことができませんでした。
抱いたまま、ほっぺたにキスをしたり、 自分のほっぺたを
こすりあわせたり、ありがとうと伝えたり、
いろいろして、結局、棺に入れるまで何分も何分も、
長い長い時間がかかりました。
いつまでも抱いていたい、と思いました。
妻と一緒に号泣しました。

母親である妻の悲しみは、父親の私とは次元の違う深さでした。

自宅で出産して、まだ保育園も入っていなかった次男(たっくん)。

妻は、生まれた日から亡くなる日まで、たっくんと1日も離れることなく、
ずっと2人きりで自宅で過ごしてきたのです。

くすぐると笑うようになってきて、たっくん可愛い可愛いと
毎日語り合っていました。

突然その存在がなくなってしまった。
どれほどショックだったことか。

父親の私でさえ深い悲しみを受けたのに、母親として妻が味わった悲しみは、
私とは次元の違う深さでした。
亡くなってから休みを終えて私が職場に復帰した後、
日中に家で1人になった妻は、ふと、たっくんの後を追うことが頭をよぎったそうです。

本当に辛かったと思います。よく生きていてくれた。
本当に、今でも妻への感謝の気持ちで泣きそうになります。

たっくんはまだ3ヶ月半だったため、妻の身体からは
おっぱいが何週間か出続けました。飲んでくれる子はもういない。
それでも、おっぱいは出るのです。
コップに絞っては、お供えする、の繰り返しでした。
どんなにか切なかったか、と思います。

亡くなった直後、信じられない私は、きれいな顔をしている
たっくんの、この口からおっぱいを飲ませれば、また息を吹き返す
のではないか、というありえない想像をしては否定する、という状態でした。

心では全くたっくんの死を受け入れられていなかったのです。

受け入れられるようになったのは、時間の経過と、
映画『うまれる』の挿入歌「泣いていいよ」の存在が大きかったです。

映画『うまれる』は本当に心揺さぶられる素晴らしい映画でしたが、
その中で一番激しく涙が出たのが、「泣いていいよ」という
挿入歌が流れるアニメーションの場面でした。

子どもが亡くなり、天使になる。悲しみに打ちひしがれる母親を見て、
天使になってしまった子どもも、涙を流す。
そのアニメーションを観ながら号泣しました。

その挿入歌がどうしてももう1度聞きたかったので、2週間くらいたって、
ようやく少し落ち着いてきた頃、サントラCDを購入しました。

「泣いていいよ」の歌詞カードを見ながら、聞いてみました。

自然と涙がこぼれました。

なんて、気持ちをわかってくれている歌詞なんだろう。
そう思いました。
妻は、最初の1分間くらいを聞いただけで号泣でした。

この歌を、繰り返し、聞き、繰り返し、泣きました。

本当に、この歌に救われました。

「大好きだよって伝えたかった」

「お腹に来れて幸せだったよ」

「ママは何も悪くない。私が選んだことだから」

「ママは心が痛くてたまらない
 どうして帰るって決めてしまったの?」

「泣いていいよ 悲しいときは それが自然なことだから」

「ママ、パパ、ありがとう ごめんね また会う日まで」

あまりにもまっすぐな歌詞に、どうしようもないほど
泣きました。私も何度も泣きましたが、妻はもう
心の底から泣いて泣いて、何度聞いても泣いていました。

妻は、ある夜、1つのことに気づき、それがたっくんの死を
受け入れ始めるきっかけとなりました。

妻は「5年日記」をつけているのですが、昨年の同日のことを日記帳を見て思い出しました。
妊娠2ヶ月目に貧血で倒れてしまったのです。

病院に運んでもらう友人の車の中で、流産を覚悟したそうです。
(私も職場に連絡が来て、病院にすっ飛んで行きました)

でも、たっくんは生きていてくれた。
その後も無事にお腹の中で育ってくれて、この世に生まれてくれたのです。

もしあのときに流産していたら、
亡くなった悲しみは、ここまで深くなかったかもしれない。

では生まれない方がよかったのか?

もし生まれなかったら、たっくんが生まれたあの喜びも
味わわないことになる。

もし、たっくんが3ヶ月で亡くなることが運命だとしたら、
生まれる喜びと亡くなる悲しみが、
セットになっていて切り離せないものだとしたら。

私はたっくんが生まれたあの素晴らしい喜びを味わいたいから、
この悲しみを選ぶだろう・・・

そして、たっくんもそれは同じだったんだ。短い生涯と知ってて、
それでも選んで生まれてきてくれたんだ」

====================================
 ※決して流産された方の悲しみが小さいという意味ではありません。
 ※子どもの死を体験した妻が、深い悲しみの中でそう感じたという意味です。
 ※もし、不快になられた方がいらっしゃれば、申し訳ありません。
====================================

妻はそう気づいたとき、とめどない涙があふれ、そして、
たっくんの死を受け入れ始めたそうです。

「泣いていいよ」の歌が、たくさんの涙を流させてくれて、
たっくんの死を受け入れる心の準備を
整えてくれたのではないか、と私は思います。

先月の四十九日の頃には、夫婦ともこの歌を聞いたときでも
涙があまり流れなくなりました。

今は、毎朝、起きると自分が生きていることに感謝します。

隣で寝息を立てている妻と長男が生きていることにホッとして、感謝します。

今日も1日自分も大切な人も生きられてよかった、と感謝できるようになりました。

生きているのは、当たり前のことではない。

奇跡なんだ。

なんてありがたいんだろう。

そう感謝するようになりました。

この映画、この歌に出会えて、本当に感謝しています。

心からそう思い、そう伝えたくて、この長い長い文章を
書かせて頂きました。

読んでくださり、本当にありがとうございました。

2012.05.12 投稿者:PEP

結婚して20年過ぎました。三人の母親です。

長女は後数日で高校を卒業します。特別支援学校高等部を…です。

長女に知的なハンディキャップがわかったのは、2歳。難治性てんかんと診断を受けてから。
それまでは言葉は遅いけど普通の子供だと思っていたのですが…。歩き出してからは、多動で育てにくい子どもではありました。

障害を受け入れるまで、私は数年。夫は…もっとかかったと思います。
大学病院の先生には遺伝的要素はないといわれました。

だけど、今でも自分のせいで障害のある子どもが生まれたのではないかという後ろめたさはいつも付きまとっています。

夫の実家は地方の旧家で、本家。男の子がきっとほしいはず…そんなプレッシャーも自分の中に持ち続けて、娘の療育、治療に費やした、苦しい5年間。

新たな命が宿った時、正直、怖かった。
ひょっとしたら…おなかの子にも障害が出たらどうしよう。

誰にも言えなかったけど、底知れぬ恐怖に近い感覚で過ごした36週と6日。
少し早く生まれてきた彼は、元気な男の子。お姉ちゃんの時よりも大きな声で、しかも楽な出産。

しかし、彼は娘と違い、神経質で眠らない子どもでした。
だけど…今度は、この子を元気でしっかりした子に育てたいという一心で、かたときも肌身離さずに抱っこし続け過ごしました。

しかし何かの時に将来の彼の負担がよぎります。お姉ちゃんのこと、この子の負担になるのではないか。

夫と話し合い3人目を妊娠。神経質な長男との蜜月はわずか1年5か月ほどでした。
相当荒れましたよ。

赤ちゃん返りははげしかったけど、お姉ちゃんの問題行動に彼の思いは100パーセントは受け止めてやれませんでした。

3人目の出産後に夫の実家に預けた1か月で、私の顔を忘れていたのにはちょっと悲しかったかな。

障害のある目の離せない娘と、手のかかる乳児2人の子育ては、転勤族の家族には過酷でしたが、転勤した先々でいろんな人に助けられながら乗り越えてきたように思います。

最終的には、転勤族から足を洗って、夫の地元に戻ってきました。
それから数十年たち、子どもたちもそれぞれ成長。

一言では語りつくせない家族の涙の歴史もありますけど…。
私自身、成長期には親との関係がよくなく、結婚は実家から出るためのツールでしかなかった。とにかく早く実家からまっとうな理由で出たかった。

そんなですから、子どもを育てるなんてことは考えたこともありませんでした。

だから…初めての子が障害児だったことで本当にどうかなりそうでした。
子育てってこんなに大変なこと?子どもってかわいくない!!まかり間違えば翌日のニュースになっていたかもしれないようなこともありました。

幸いにも夫が柔軟に対応してくれ、寄り添ってくれたことで、すごく助けられたと思っています。

母親との確執も随分長い間引きずっていました。

そもそも娘を早く孫を作れと毎日のように電話をかけてきたのは母親。
その母の言葉にせかされるように作った娘が障害を持っていたことも、母に対する憎しみをさらに増長させたように思います。

それもあって、娘がかわいく思えなかったのでしょう。心の中のもやもやはいつまでもぬぐいきれませんでした。

昨年、母が心臓病で倒れました。病院に毎週末、片道3時間かけて通いました。
なんだか、母が小さく思えました。そして気の弱いことを言うんです。

「あんたも大変なのに、遠いところからごめんね。」

改めて、母と過ごせる時間に限りがあることを感じました。あと何回、母と過ごせる日があるのだろうと。

私は、子どもたちが生まれた時から、心に決めていることがあります。
親も子も一人の人間だから、それぞれの考え方がある。だから、親が子供の生き方を決めるようなことは言わないようにしたいということ。

弟たちの将来、自分たちのやりたい道を進んでほしいと思っています。まあ、経済的に厳しいので支えきれない部分も多々あるのですが…。

転勤族を続けていたら、今ほど経済的にしんどい思いはしなくて済んだかもしれませんが、精神的に私がダメになって、家族もバラバラになっていたことでしょう。
娘は卒業後社会に出ます。

社会と言っても、施設に通い始めるだけですが、大人の仲間入りであることに間違いはありません。

子どもたちの成長とともに、自分も年を取っていきます。その分、成長しきれなかった心は少し成長したのかもしれないと今は思うことがあります。

20年は長いように思いますが、実は瞬きしている間だったかも…そんな風に感じています。
まだまだ先は長いと思いますが…。

今まで多くの人に助けられて子育てしてきましたが少しでも恩返しがしたいと、今自分は子育て支援にかかわる仕事をしています。

子どもが苦手だった自分がこんなにも子どもや家族の在り方を考えるような人間になるとは思いもしませんでした。

人生って不思議です。

2012.02.26 投稿者:なぎ

来月で8歳になる息子がいます。
彼を妊娠するまでに色んなことがありました。

常に父の顔色を見て生活しないといけなかったこと
おかげで結婚に全く興味がなかったこと
ダンナに結婚を申し込まれても
「バツイチになったらもう結婚しなくて済む」と思ったこと
その後、父にガンが見つかり、6週間で逝ったこと

父は粗相をした子犬を窓に投げつけるようなヤツだったので
私が子どもを産むなんて全然考えられなかったけど
つきあってるときからダンナが切望してることを知ってたので
結婚してからも悩み続けてました。

でも両親の離婚問題がきっかけで私が意識を失って倒れ
「てんかん」の疑いがかけられてから妊娠への考え方が変わりました。
せっかく子どもが持てる機能があるのだから、それを一度使ってみようと。

通院も続けながら心理カウンセリングも受けるようにし
病気の疑いがはれてからいつ妊娠してもいいように準備。
父が亡くなって半年後に彼はやってきてくれました。

妊娠中も臨月に入るまでカウンセリングを続け、何とか出産
…でもそれからが大変。
産後、ホルモンバランスが悪い中、息子が生後6ヶ月時に隣市に引越し
それからは孤独との戦いが。
いつ私はこの子を殺すんだろうと思ってました。

幸いダンナが理解を示してくれ、引越し後にカウンセリング再開。
息子が1歳時には近くに月1回子どもが遊べる広場ができ
何とか生き延びることができました。

息子に言ったことがあります
「死んだじいちゃんの生まれ変わりかと思ってドキドキしたけど
 アンタはお父さんの優しさを持ってる子やった。
 お母さん、間違ってたわ~」。
彼はもうすでに気づいてたようで
「お母さん、よう間違えるからなぁ~(笑)」と言い返されました。

正直に話せたとき、ようやく家族になれたような気がしました。

2011.05.29 投稿者:Ganko

たった1人の娘も小学1年生になりました。
3年間の不妊治療で授からなかったので、夫婦2人の生活を楽しもうと決めて1年後に自然妊娠。
生理が遅れてすぐに激しいツワリ…。(産後1週間後まで吐き気は続き…。)
妊娠40週で体重はマイナス1キロ。

23時間の陣痛、産道強靭で鉗子分娩。生まれた娘は顔中傷だらけで…。
産後2日目に旦那が失業し、うつ病に…。

妊娠出産は惨敗続き。

でも、でも、娘が可愛くて可愛くて、娘が元気であればなーんにも怖くない!って幸せホルモンが溢れ出ていました。生後6か月までは…。

生後6か月を迎えたある朝、いつものように話しかけながら娘に視線を落とすと…
娘は全身を硬直させ、白目を剥き、唇は真っ青で、顔面は蒼白、泡を吹き、手足を小刻み震わせているのを目の当たりにしました。
この日を境に病院通いが始まり、稀な障害も見つかり、手術が何度も必要なのに、手術ができるドクターが国内にわずか数人しかおらず2年間のドクターショッピングの末に自宅から500キロ離れた病院で現在も治療中。
就学時検診では知的障害が見つかり、地域の発達センターにも通っています。

そんな育てにくい我が娘ですが、1度も「生まなきゃ良かった」なんて思えません。
私たち夫婦にとっては娘は「天使」です。
本当に 産んでよかった♪

2010.11.13 投稿者:ニャンペタ

たまには一人で歩いてみたい
徒歩数分のコンビニへの往復だけでも新鮮♪~
そんな声を 聞いていたけど本当にそうだったぁ

そんなほんとちょっとだけのことだけで
違うんで パパさん達 よろしくたのみます

自分ばっかり飲みに行ったり・出かけたりされると
そのこと自体がうらやましすぎてストレスになるんで
仕事も大変だろうけど
こっちも24時間なので

子供はぐりんぐりんにかわいい♪だけど それでも
たった数分でいい一人で歩きたい!!!!って ほんと小さな夢

休みの日にみてくれても ですね。
2人でみているんぢゃ むちゃくちゃ楽なわけです。
一人で24時間×○日 みているのとは ぜーんぜん違うんです

でも言わないと伝わらないから(って、毎日すれ違いで会わない=話す時間もないんだけど)
たまりにたまって やっと伝わって ほっとしました
(一見正常に見えるので ヤバさ加減がわかっていなくて 大変だったけど)

やっぱり 一緒に住んでるんだし 話しようよ
たまに会えたら TVちょっと消しましょー

ってことで 是非プレパパさんたちには うまれるをみてもらって 父心を強くして
子育てに望んでほしい!!

2010.11.02 投稿者:たまにはひとりで

出産してから3年の月日が経ちました。

妊娠・出産は不安も喜びもあり、今でも鮮明に覚えています。
でも、問題はその後。
産後は私の心も体もぼろぼろに。
全ては、母と子の孤独な育児が原因でしょうか。
実家は遠いですが、お盆やお正月には帰省します。
相談するママ友達もいます。
けれど、一番一緒に育児をしてほしい・悩みをわかってほしい夫が
家にいなければ、いくら他の誰かに相談したところで、
結局は自分が頑張るしか問題は解決しないのだと、分かりました。

主人も、好きで育児をしない訳ではなく単に仕事が忙しいだけです。
本当はすごく家族想いで、子供が大好きなのです。

しかし今の日本の企業は、子育て世代が働き盛り。残業残業また残業。
最近メディアで、イクメンや育休などよく目にしますが、とても遠い存在に思えます。
少なくとも私の周りには、育休を取った経験のある男性や、子供が産まれた事で
働き方を変えた男性はいません。
働き方や自分の人生設計を変えざるを得ないのは、母親だけなのです。

こんな状態なので、産後は夫婦喧嘩も増えました。会話も平日は主人の帰宅が遅く、
私は子供と早く寝るので、減りました。そして、気がつけば体重が10キロも落ちていて、
急に涙がボロボロ流れたり、子供や主人に異常に怒ったりと自分の感情がコントロール
出来なくなっていました。
そんな私を見て主人は「医者に行けば」の一言。

こんなんじゃいけない!と私も思い、できる範囲で自分の時間を作ったり
完璧を目指すのではなく手抜きをしたりと、少しでも自分が楽になるように
していきました。

今は、その甲斐あってか、私が少し育児に慣れてきたのかわかりませんが
だいぶ以前より心も体も落ち着いています。

ただ、いまも思うのです。
夕方、子供のお風呂と夕飯と後片付けを終えて、後は歯磨きをすれば
今日一日が終わる~はずだった...のに、子供が歯磨きを嫌がって歯ブラシを床に落とし
私が切れて・・・子供が大泣き。こんなとき、もう一人 大人がいてくれれば、と。

2010.10.20 投稿者:aya

2歳・1歳の二人の娘がいます。

毎日の忙しさに追われ、正直娘たちの成長を喜ぶ余裕もありませんでした・・・。

自分の時間が欲しい、一人になりたい、子供なんて・・・そんなことばかり考えている自分がいました。

ある時、毎日に疲れて思わず大声で泣いてしまいました。

その時に娘は、私の頭をナデナデしてくれました。

やっぱり私にとって娘たちは宝物だと気付きました。

2010.10.01 投稿者:アイス

 

2010.09.10 投稿者: